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いつも登り口は釈迦谷から秋葉峠、「氷室古道」を氷室の里へ
そこから京都トレイルの63番をとおり、十三国山へ向かう
その釈迦谷を登る谷路にひじょうに興味をもっている
古い小さな石碑が幾つかある
このあたりは 「芳春院山」といったようだ
氷室古道の入り口からは「清泉寺」の石碑がみられる
ネットで調べてみると 京都北部にある「大徳寺」の塔頭寺院のひとつに「芳春院」というのがある
この名前のお寺は1608年に加賀藩の前田利家の妻の松子が前田家の菩提寺として建立した 禅宗のお寺で釈迦如来をまつる
大徳寺の塔頭の一つに「清泉寺」というのもある もとは伏見にあったお寺を1600年頃に移したようだ
近くの釈迦谷山にも瓦が落ちていて 石碑があるのだ
この石碑は読めないが 「東漸?菴?領」とも読める
おそらく明治維新の廃仏毀しゃくで 沢山の寺院を破壊したが、
そのころにでも壊されたのか、、
芳春院、釈迦谷、清泉寺、そして東漸菴領
なんだかロマンにみちて謎を感じる
初めまして。おじゃまします。こういうのが好きなpasocomと申します。
「従是」は「これより」で境界標の定番文字のようです。
「漸菴」は「ぜんあん」、「菴」は「庵」と同じで「あん」。
これは「玉川遠州流(ぎょくせんえんしゅうりゅう)」という茶道の宗家、五代目の「大森宗龍」の号のようです。
ですので、この境界標は「これより東は大森宗龍の領地」と言う意味ではないでしょうか。
早速に丁寧なお教えをいただき大変ありがとうございます。不明なことの一部が解りとても嬉しいです。ついでに質問してもよろしいでしょうか。この五代目大森宗龍という方は何時頃の人でしょうか。
大森宗龍という人は、WIKIPEDIAによると「文政7年〜明治30年」ということで、ちょうど明治維新をまたいで生きた方のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E9%81%A0%E5%B7%9E%E6%B5%81
石碑の古さと比べて新しすぎでしょうか??
納得が行きました。土に埋もれていたわけではないので、それほど古いものではなくて、明治期頃で合うのではと考えます。この碑のあった釈迦谷山は光悦寺(本あみ光悦のお寺)や源光庵へ行く道(現在自動車で京見峠から若狭や嵐山方面へ抜ける道)の脇にある小山です。茶道の家元の領地があっても不思議ではないように思います。
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