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植村直己さんは、兵庫県豊岡市日高町の出身で、豊岡市にも植村直己冒険館がありますが、1968年秋に日本に帰国されてから1984年2月にマッキンリー登頂後に消息を絶たれるまでの15年間、植村冒険館の近くの板橋区仲宿に住まわれていたようです。
明治大学に入学して山岳部に入られた頃は、しょっちゅう山で転んで「どんぐり」というあだ名で先輩から呼ばれていたそうですが、持ち前の負けん気と体力強化のトレーニングを続けられて、立派な身体を作られたとのことでした。
また、ヨーロッパの山に登るための資金を稼ぐために、1964年の春に日本を飛び出して、日本に強制送還されるリスクを抱えながら、観光ビザのままアメリカの農場で働いたとのこと。結局係官に見つかって強制送還になりかけたところを、日本語の通訳を入れてもらって自身の山に登りたい熱意を伝えて、アメリカを出国してヨーロッパに行けるようにしてもらったりと、随分と修羅場をくぐり抜けてこられたようです。
その後、フランスのスイス国境に近いモルジンヌ周辺のスキー場(現在のAVORIAZ(アヴォリア))で3年間ほどパトロール員やリフト整備の仕事をされつつ、ヒマラヤのゴジュンバ・カン、マッターホルン、モンブラン、ケニア山、キリマンジャロなどにも登られ、スキー場を辞められた後は、南米のエル・プラタとアコンカグア、無名峰(明治峰)に登られ、最後にアマゾン川を2か月間筏下りをして、その後アラスカにも立ち寄られましたが、この時はマッキンリーの単独での登山許可が出ずに日本に帰国されたようです。
その後、1970年の日本山岳会エベレスト登山隊の話が舞い込み、本番の前に、1969年に第一次偵察隊、第二次偵察隊が組織されて、どちらにも参加されて、第二次偵察隊の後は、ネパールの現地で春まで越冬をされています。本番では、松浦隊員とともにエベレストに登頂されました。
今回の企画展では、最後のマッキンリーの冬季登頂に向かう植村直己さんの映像や、実際にマッキンリー冬季登頂時に使用され、山頂から回収された日本の国旗や、ハイキャンプから回収された装備類の展示などもあって、見るべき所が多くありました。最終的には南極大陸横断を目標にされていたようで、耐寒訓練のためか、シュラフもハーフサイズのものだったり、イグルーや雪洞を造って泊まるために氷を切り出す大きなノコギリを用意されたり、クレバスに落ちないように竹竿を付けて歩いたりしておられました。
企画展の期間が6月1日までとなっていますので、ご興味のある方はどうぞ。また、植村直己さんの著作物、「青春を山に賭けて」「エベレストを越えて」「極北を駆ける」(いずれも文春文庫)も参考になるかと思います。
植村直己さんと言えば、エベレスト登頂時数メートル手前で隊長に道を譲った(一番乗りの名誉を譲る)逸話を忘れることは出来ませんね。マッキンレーの竹竿を担いで向かった後ろ姿も脳裏から離れません。次元が異なりますが、自分の「単独行」時の心の支えになっていました。
豊岡市の記念館訪問も宿題になっています。
コメントありがとうございます。
エベレスト山頂手前で、先輩お先にどうぞと松浦さんに道を譲られた逸話ですね。
マッキンリーの竹竿は、植村冒険館にはありませんでしたが、冬期登頂時にカヒルトナ氷河を登られている映像の中で出てきました。
豊岡市日高町は神鍋高原のある場所だったと思いますが、私も、向こうの植村直己冒険館に、いつか訪れてみたいです。
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