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2週連続で山に行ったので今回は筋肉痛はなし。ペースが上がらないのは、単に写真を撮るため何度も立ち止まるから。野川沿いの染井吉野🌸はだいぶ葉桜になってしまったが、対岸の八重桜🌸はこれから満開を迎えるところ。すぐに散ってしまう可憐な染井吉野🌸と異なり、熟れた果実のようにたわわに花をつける八重桜🌸には惹かれず、これまであまり意識してこなかったのだけど、目を凝らすとあちこちに咲いていて、まだしばらく花見ランが楽しめそう♪
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オーディブルは志村真幸『未完の天才 南方熊楠』が今朝でおしまい。
熊楠の名を全国に知らしめた神社合祀政策とは何だったか。①天皇を中心とした浸透による国家運営を日本の隅々にまで浸透させようとした。小さくて得体のしれない神社が無数にあったものを、地域(村、集落、地区)ごとに一つの神社に集約して合祀する。現在の神社にいくつもの神社が並んでいるのはそのため。②統廃合された神社を国の管理下に置いた。各神社の祈年祭、新嘗祭、例祭のときに県知事から「神饌幣帛料(神への供物、捧げ物)」の名目で現金が配られ、神官が配置された。日清日露戦争で莫大な戦費がかかったこともあり、神社の数を劇的に減らし、残った神社にだけお金を渡した。③上からの圧力のみならず、氏子たちの神社離れ、地元からの若者の流出が加速し、祭りや神事の担い手不足が始まっていた。④統廃合された神社にあった鎮守の森は伐採され、明治維新以降の木材需要の激増(建材、火力発電所の燃料など)に対応した。それによって一部の有力者は濡れ手で粟の儲けを手にした。→④が熊楠の逆鱗に触れた。鎮守の森は熊楠のフィールドワークの場であり、熊楠が新種を発見した場でもあったから。森を守れ(エコロジー=生態学的な観点から、希少種のみを保護するのではなく、森=生態系全体を守らないと、希少種も生き残れないと知っていた)、というのが熊楠の一貫した主張で、だからこそ熊楠はエコロジーの先駆者とされる。
「ここで注目されるのは、守るうべきものが、ひとつの植物とか特定の場所にかぎられていない点であろう。ある特別な種類を貴重だといって保護しようとするのではなく、さまざまな生物がともにある状態を、全体として保つことの重要性が示されている。木々も繁っていれば、きれいな花もあり、シダ植物も見られ、キノコも生え、動物たちも暮らしており、それらを支える土も見逃してはならない。それが熊楠の反対運動における特徴であり、主張であった。個々の存在だけではなく、全体として自然を捉える。それらが組み合わさることで、全体も個々のものも生きていられる。何かが欠けたら、たちまち崩れ去ってしまい、なかなか復元できない。生態学は当時の新しい学問分野だったが、それを熊楠は完全に理解して、みずからの運動にとりいれていた。そしてさらに学問から実践へと進んでいた。これこそが熊楠が「エコロジーの先駆者」といわれるゆえんなのだ。
「神社合祀に関する意見書」では、「無用のことのようで、風景ほど実にひとの世のなかに有用なものは少ないと知るべきである」としている。「風景」という言葉は、現在では「環境」といいかえていいだろう。
1923年に執筆された「鼠に関する民俗と信念」の原稿でも、「世界にまるで不用の物なし」として、「多くのキノコやカビは、まことにせっかく人が骨折ってこしらえたものを腐らせ、悪くさせることはなはだしいが、これらがまったくないとものが腐らず、世界が死んだものでふさがって二進も三進もならない。そこに発酵・変化・分解・融通させることで、一方では多く新たに発生するものに養分を供給するから、実際には一日もなくてはならぬものだ」としている。
現在のような環境保護の意味でのエコロジーの用法は、1960年代以降に『沈黙の春』(1962年)で知られるレイチェル・カーソンらによって広められたとされる。しかし、熊楠はその50年も前に、同じような考えに行き着き、なおかつ社会運動として実践していたことになる。」
熊楠が帰国後、紀州に引きこもることができた理由の一つに、郵便制度の発達があげられるという指摘に目を見開かされる。熊楠はさながら引きこもり&コミュ障の「こどおじ」で、柳田國男が年末に突然実家に押し寄せたときに酔っ払ってまともに会話できなかったように、ネット(手紙)がなければまともにコミュニケーションもとれないネット(手紙)弁慶だった。だが、ネット(手紙)があったから、論争の相手は英国をはじめ欧州圏に広くちらばり、そこで活発な「対話」が行われていた。紀州に引きこもった男は決して孤独ではなく、時代を先取りしたコスモポリタン(あるいはネチズン)だったのだ。
「熊楠の研究活動を語る際に、郵便制度の問題は見落とせない。「N&Q(Notes and Queries)」は1849年、「ネイチャー」は1869年の創刊で、これ以外にも19世紀中葉のイギリスでは無数の雑誌が発汗された。これらの雑誌の前提となったのは、1840円のローランド・ヒルによる普通郵便精度の開始であった。切手による前払い制、安価な均一料金、全国規模での郵便網整備により、雑誌を各地の購読者に届けることができ、同時に投稿者からの原稿が安価・迅速・確実に編集部へもたらされるようになった。のちに熊楠が日本から投稿できたのも、1874年に万国郵便連合が成立して国際郵便網が整備され、1877年に日本も加盟していた恩恵によった。郵便制度が整えられていたことで、熊楠は世界とつながっていられたのである」
「熊楠はロンドン時代に始めた「ネイチャー」と「N&Q」への投稿を帰国後もつづけるが、次第に「N&Q」が主戦場となっていき、「ネイチャー」には1914年1月15日号に出た「古代の開頭手術」が最後となる。(中略)
熊楠が「ネイチャー」を離れたのは、誌面が急速に自然科学系の専門的な内容に変化しつつあったことによる。古典文献からの引用が中心で、自身の観察、実験、データ、理論の少ない熊楠の投稿は場違いになりつつあった。また大学に自然科学系や工学系の学部が増え、専門の研究者の数が激増していた。彼らの投稿によって、アマチュアである熊楠は次第に押し出されていったのである。
いっぽうで「N&Q」は、まだしばらくは19世紀的な雰囲気を保ち、多様な切り口の論考が許された。さきほど熊楠が「N&Q」に投稿しつづけたのは、世界的な活躍という自負が大きいと書いたが、それ自体が楽しかったのだろうこともまちがいない。「N&Q」は質疑応答誌であり、だれかが話題を投げかけると、別の投稿者が答えを出し、そこから議論になり、また反論が出たりと、たくさんの論考で賑わった。現在のインターネット上の掲示板や、SNSでのやりとりによく似ている。
熊楠は議論が大好きな人間であった。オランダのシュレーゲルとは17世紀の中国の辞書である『正字通』にある「落斯馬」という動物の正体をめぐって、「ロスマ論争」をくりひろげた。シュレーゲルがイッカクとしたのに対して、熊楠はセイウチであると主張し、結局、熊楠の勝利で終わったものである。柳田とも、第8章で見るように「山人論争」で争った。もし熊楠が現代に生きていたら、インターネットやSNSを嬉々として使いまくっただろう。そして膨大な知識量で尊敬を集めるとともに、厄介者として疎まれたかもしれない……。
学術誌はコミュニケーション・ツールとしての機能ももつ。同好の士が集まる場であり、意見を発表すれば、だれかが反応してくれる(もちろん、黙殺されるケースもあるが)。熊楠にとって英文論考を書いて投稿するということは、他者との交流を意味した。ロンドンと和歌山の9000キロ以上もの距離をものともせず、田辺の自宅にいながら海外のひとびととの交流を楽しんでいた熊楠は、時代をさきどりしていたといえよう。ロンドンからの帰国を決意したのも、郵便と雑誌を介して交流が保てると確信したからだったと思われる」
「「N&Q」の特徴は読者投稿誌という点にあり、すべてのページが読者からの投稿で埋め尽くされている。誌面は、ノート、クエリー、リプライの3つの欄からなる。ノート(短報)は投稿者の発見した知識や情報を書き送ったもので、現在の学術雑誌に出るような論文から、ごく簡単に事例を挙げた短文までさまざま。クエリー(質問)は、読者へ広く情報を求めた問いかけのこと。リプライ(応答)は、クエリーへの返答であった。リプライは1本では終わらず、数十人から寄せられることもある(ノートにリプライが付くことも多い)。何年もリプライが出つづけることもしばしばであった。もちろんまったくリプライの付かないクエリーもある。ひとつの物事や人物について大勢が情報を出しあうという点では、現在のウィキペディアに近いかもしれない。
熊楠は「N&Q」に、比較文化、科学史、東洋事情、民俗学といった分野の論考を寄せた。なかでも、西洋ではこういう事例(民話、習慣、ことわざ、信仰など)がある、と話題が出ると、それに類似した(あるいは正反対の)例が日本や中国にもあると反応するのがお決まりだった。熊楠は日本からの投稿者として、誌面では有名な存在となっていた。欧米人投稿者のなかにも、日本語や中国語の読める人物はいたが、熊楠ほど自在の多数の書籍を扱い、引用できるものはいなかったのである。そのため東洋関連のクエリーでは、しばしば熊楠が名指しで情報提供を求められている。実際、20世紀前半の「N&Q」では、東洋や日本についての論考がめだって増えていく。熊楠は国際的な学術空間において、たしかな存在感を発揮していたのである」
やがて袂を分かつ柳田國男との、妖怪に対する態度の違いもおもしろい。熊楠は妖怪の実在を信じていなかったが、妖怪にまつわる伝承や説話があることは否定しない。そうした妖怪がいると信じられていること自体に興味があった。
「熊楠は自然科学のトレーニングを詰んだ人間であり、リアリストの側面が強い」
「熊楠は妖怪を捕獲して生物学的に研究しようとしていたわけではなく、妖怪にまつわる信仰や説話を人間の文化と捉え、研究したいと考えていた」
「熊楠は説話や伝承は好きだが、それはあくまでフィクションであり、妖怪が実在するとは毛ほども考えていない」
「柳田と熊楠の差を、あえて大胆にいってしまうならば、ロマンがあるかどうかだと思う。不思議なものに憧れ、その実在を肯定しないまでも、信じたいという気持ちがある柳田に対し、熊楠はリアリストである」
「柳田は『遠野物語』の序文で、遠野やさらに山深いところには「無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べている。平地人、すなわち常民や農民や都会人への強烈なメッセージとして投げかけられた言葉だ。『遠野物語』は不可解なできごとに満ちた一冊で、河童、山姥、サムトの婆、馬との結婚、オシラサマ、座敷童といったものが登場する。その世界には、理性だけでは対応できないような魅力があり、いまも読まれつづけているのがよく理解できる。それがひとびとを惹きつけ、妖怪研究へと踏み出させていくのだ。
しかし、わたしは断然、熊楠派である。たんなるロマンで山人という想像をふくらませるより、冷徹に事実を見つめる目をもちたい。それに、「本当に妖怪がいるのか」という問いよりも、「なぜひとびとは妖怪というものを想像してきたのか」というテーマのほうが、ずっとおもしろく感じられる」
同感。神に対する態度も同じで、自分は神を信じないが、人間が神を生み出した理由やそれが必要とされた経緯(人間の弱さ)についてはおおいに興味がある。
「熊楠が仕事を完成させなかったのは、タイマンや能力不足によるものではない。むしろ、熊楠にとって研究とは「終わってしまってはいけないもの」であった。キノコは未知の種がいくらでも見つかる。夢はけっして解明されず、いつまでも難問としてそびえつづけている。抜書にしても、書き写すべき本は無数になった。言語の学習にゴールはない。論考を執筆するネタが尽きることはなかった。
これらは、熊楠のありあまるほどの天才を満足させてくれる巨大な謎であり、終わることのない研究テーマだったのである。むしろ簡単に答えが出て、論文にしたらおしまい、では困るのだ。それではあっという間にやることがなくなってしまう。そうした観点からするとキノコも夢も理想的で、もしかしたら、終わらないからこそ、熊楠派これらを研究対象として選んだのかもしれない。そして未完であることによって、最後まで熊楠は充実した日々を送れたのであった。そこには、研究の完成はない。しかし、引退もなかった。それは研究者、いや人間ならだれもが夢見るような、幸せな人生ではないだろうか」
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