![]() |
が、時に趣あるゴミがあったりもする。
写真は古いHi-Cの空き缶。
どれだけ昔からここにあるんだろう?って、想像力を刺激されるサビ具合だ。
こう見えて実は意外と新しい、なんて可能性もあるかもしれないけれど、
(ゴミと遺物との境目はどこにあるんだろう?)
ちょっぴり考えてしまい、放置してきた。
ゴミが何故ダメなのか、その理由として最も最初に挙げられるのは、何といっても“環境破壊”だろう。
ここでいう環境とは山・自然・動植物の生活のことで、破壊というのは元々保たれている状態を阻害して壊すことだ。
つまり元々山にないようなものは、全て何かしらの環境破壊の要因となり得る。
一時的に人間が歩くことですら環境に影響があるとして「ローインパクト」が呼び掛けられるのだから、ましてや何かを捨ててくるなんてことは以ての外。
ゴミとはそういう存在だ。
つまり、
“ゴミ=自然の中に人間が持ち込んで放置したもの”
という定義が考えられる。
しかしこの定義では、
「山頂標識やらロープやらルートを示す赤テープやらは人間が設置したものだが、ゴミなのか?」
というツッコミの余地がある。
実際、無許可の山頂標識をゴミとして撤去する人もいる。
劣化して登山道に散らばっている赤テープの切れ端を、ゴミとして拾って持ち帰ることもしばしばある。
ロープも同様だ。
まぁ確かに古くなればゴミになり得るが、ロープや鎖、標識なんかは登山に有用だからゴミじゃない、と区分しても良いだろう。
人間が持ち込んだものではあるが、安全な登山のためには必要なものだ、という考え方だ。
そこで、
“ゴミ=自然の中に人間が持ち込んで放置したもの。ただし必要なものは除く”
と再定義してみる。
では、昔の修験者が置いていった鉄剣や、祠等に納められた賽銭はどうか?
剣も賽銭も登山には特に必要というわけではない。
それらはゴミなのか?
置いてある賽銭を、ゴミ拾いと称して集めて帰っても問題ないのか?
いやいや、それはさすがにマズイ。
鉄剣や賽銭には歴史的価値や宗教的価値がある。
所有権という意味では神社・仏閣のものだろうし、何よりも、置いた人の想いがこもっている。
慰霊碑や、そこに供える花等もそうだ。
ゴミと言い切るのは心情的に無理がある。
そこで定義をさらに見直すと、
“ゴミ=自然の中に人間が持ち込んで放置したもの。ただし必要なもの・想いのこもったものは除く”
ということになるのだが……。
段々怪しい定義になってくるw
これでは、想いを込めて捨てればゴミじゃないことになってしまう。
先ほど言及した、無許可の山頂標識についてはこの辺りで議論が分かれるところだ。
擁護派は『登頂の記念にと、想いをこめて設置しているのだからゴミなんかじゃない』と言い、
撤去派は『想いなんぞ知るか、センスのない標識は景観を破壊する。あくまでゴミだ』と断定する。
これでは水掛け論になってしまうので、明確な判断基準として引っ張りだされるのは“公的機関の許可があるかどうか”だ。
定義に追加すると、
“ゴミ=自然の中に人間が持ち込んで放置したもの。ただし必要なもの・想いのこもったもの・公的機関の許可があるものは除く”
と、なんだか除外するものがどんどん増えていく。
長ったらしくて定義としては今一つだ。
そこで噛み砕いて言い直してみると、結局、
“人間が放置したもので、一般的に見て不快に感じるものがゴミ”
というくらいの定義が一番しっくりくる。
うーむ、極めてグレーな“常識的判断”ってやつだ……。
何をもって“ゴミ”とするかは、不快に思うかどうか、という点にかかっている。
ここで言う“不快”とは、
(環境破壊になるから不快だ)
(景観を損なうから不快だ)
(公的機関の許可がないから不快だ)
(自然に還らないから不快だ)
(好みじゃないから不快だ)
(今日は気分が悪いから不快だ)
など、いろんな理由が考えれる。
ゴミを拾う理由なんて、所詮そんな人間臭い感情なんだと思う。
世のため人のため!なんてご立派な理由じゃなく、“嫌だ”と思うから拾う、少なくとも自分自身その程度の理由だし。
で。
以上の観点でHi-C缶を改めて見直してみる。
環境破壊にはなるだろう、自然界にはないものだ。
公的機関の許可は当然ないだろう、設置許可証のようなものは見当たらない。
景観としては、致命的なほど損なっているわけでもない。むしろちょっとノスタルジック。
懐かしいデザイン。
今でも売っているのだろうか、まったく見かけないので、もう売ってないのだろうか?
時代を感じさせるサビ。
どれくらい昔からあるのやら?
どんな人が飲んだのだろう?
飲んだのは暑い夏の日だろうか。
一人だったのだろうか。
子供だろうか、大人だろうか。
男性だろうとは思うが、もしかしたら女性かも?
その人は今も登山を楽しんでいるだろうか?
それとも今はもう登ることはないのか?
多くの登山者がこの道を通り、この空き缶に気付いたはずだ。
今まで片付けられずに放置されてきた事実は何を意味するのか。
ゴミを見れば必ず拾って帰る人もいただろうに、この空き缶は見逃されてきた。
懐かしい雰囲気を壊すまいと思ったのか?
すでにこの空き缶は景色の一部、自然の一部になってしまっているのか?
理由は分からないものの、不快に思う人がいなかったからこそ、今まで放置され続けてきたのだろう。
そんなことをつらつらと考え合わせてみるに……。
この空き缶は……。
…………。
やっぱゴミだわ!
今度行ったら拾ってくる!
こんばんは(^^)
私も、写真のような古びたごみを見つけて、不思議な感じになった事があります。
地元の小さな森で林道ウォークを楽しもうと出掛けたら、入口が完全封鎖されてて…。
引き返してたら道?があったので行ってみたら直ぐに行き止まり。
なんかとっても悔しくなって、強引に登ってみました。
いわゆる藪こぎですね。
枝をバキバキさせながら一時間程歩いても尾根に合流せず、ちょっと焦ってたら、一坪程の拓けた所に出ました。
いくつかの切り株と一つのごみ
一休みしてまた藪のなかへ突入しましたが、
何となくそのままにしておきたかったので…。
それから30分程でわかる場所に出ましたが、
もう、その場所良くわからないから、拾えないです。
まだあるのかな?
一生懸命に考えられたかと思うのに失礼かとは思いましたが、とにかく面白い日記でした。
爆笑
こんばんは〜、初めまして、でしたかね?
不思議なところにあったりするゴミは、なんだか想像力を刺激されますよね。
藪漕ぎ1時間の森の中とは……それはまた奇妙なゴミですねぇ〜
一体どんな状況でそこに捨てられたんでしょう。
考えるとちょっと楽しくもあり、怖くもあり、です
普段は人が踏み入らないような場所で、道もわからず不安な気持ちでいるときに、ゴミとはいえ、“かつて誰かがここを通った”証拠を目にすると、なんだかホッとしますよね。
そのままにしておきたかったのは、そんな安心感を感じたからでしょうか〜
こんばんは〜
本人、いたって真面目にふざけて書いてますので、笑っていただけると幸いでございます
すごい!
電車内で読んでて、引き込まれていきました。
ノスタルジーを感じます。
おはようございます。
たぶんコメントは初めてでした。(^-^)
ゴミを見つけてホッとするって変ですよね〜。
自分のことは棚にあげて、何しにこんな所に来たのか?このスペースは何のために造ったのか?
周囲には歩いた痕跡もなく、何時の事だったのかと色々考えました。
その後、袋小路になっている道で、グループでお弁当を広げている所に出ました。
こんな所でご免なさいと謝られてしまいましたが、
後で何処から来た?と思ったかな?それも一つのミステリー。
こんばんは〜
Hi-Cなんて今はもう無いですよねぇ?
と思って調べたら、2006年に復刻缶で限定販売されてたとか。
たかだか7年前のゴミか〜
……と思ってもうちょい調べたら、この缶は1973年発売のメチャクチャ古いヤツでした
やべぇっす、40年経ってるとしたらもう歴史的価値が産まれてゴミじゃないかも知れません
たびたびどうもです〜、どうぞよろしく
なんだかちょっぴり怖い話になってきましたね(^^;
周囲から隔絶された森の真ん中の謎の広場とは。
ミステリーサークルじみてるじゃないですか〜
袋小路でお弁当というのも……。
どこかに細〜い脇道でもあったんでしょうかね。
そう言えば昔、山の恩師に聞いた話を思い出しました。
南アルプスだったかどこだったか、山の中で後ろから来た人に追い越されたそうなんですが、ランニングシャツの超軽装だったので、
(はて……?)
と思いつつ、その先の山小屋まで行ってみると、
「そんな人通ってないよ?」
と言われたとか。
道は一本で、途中でどこかにそれるような場所はなかったそうです……
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する