昨夜から霏霏として小雪が舞っている。最低気温もー5℃程で雪はサラサラだ。午後からは雪は止んだ。
昨夜の続きを書く。
高校時代(1962-65年冬ベース)
過去の記録で投稿しているが、62年初めてスキー場以外、大毛無山で(BC)滑る。その頃はシールを持っていないのでシートラで登った。
ゲレンデスキーはうまくなりたくてSAJのスキー教程を何度も読み返していた。当時、指導法はオーストリア式とフランス式があったが、SAJはオーストリア式を踏襲していた。当時は外向が強かった。現代の滑りはフランス式に近い。
当時のウェーデルンはテールを押出しまるで箒で掃くように滑ったものだ。
高3の受験前は骨折したらヤバいので流石にスキーに行けなかった。受験後は数回滑った記憶がある。
大学ではスキー部、山岳部も頭をかすめたが、お金が掛かるのと危険なためWVに落ち着いた。
1回生(1965年)の春のPWで白山を登った時室堂にスキーが置いてあった。拝借して滑ってみたが、ベントがなく山靴だったのでうまく滑れなかった。
1966年3月、恒例のWV主催の「オープン スキー」があり、関西の各大学(女子大が多かった)から募集し戸狩スキー場でスキーの講習会をおこなった。この年は参加者が多く、戸狩のスキー指導員では足りず、高校時代の友人2人(赤倉観光ホテルで指導員のバイトをしていた)と私が臨時指導員として加わった。
最終日の前日講習が終了し自由に滑っているとき、急停止した瞬間足首に激痛。戸狩の医者に診てもらったら軽い捻挫との診断。最終日、皆と別れ、野沢温泉のシュナイダーコースを滑って帰る。1週間後に八幡平に山スキーに行く計画があったが、足の調子がよくなく池の平スキー場でシール登行を行う。痛みがあり八幡平BCの断念を連絡する。
そして、病院に行くと左内側の踝が骨折しており、即手術。ステンレス釘を打ち込む(釘は夏に除去)。
翌年(1967年)の正月は、姉の家族と池の平スキー場に出掛ける。
甥を股に挟んでリフトに乗ろうとした際、ストックが座席を跳ね上げ右手1本で宙づりに。運悪く雪が少なく係員が竿を持ってきたが届かず(
最も両手がふさがっているのでどうにもならない。結局、力尽き落下。
甥を抱えたまま見事に着地したが、5-6mの高さからの着地で結局踵にヒビが入ってしまった。お粗末な話。
3、4回生は実験が多くあまり休めず、BCもしていない。
3回生の5月末、岳沢の雪上訓練に一人山スキーで途中から参加した。
皆と一緒にシートラで岳沢から天狗のコルまで登る。ドロップインで第ターンをしようとすると、そこから表層が割れずるずると滑り出す。
スキーを中止して皆と下山。すると、岳沢小屋辺りまで巨大なデブリに。誰もいなくてよかった。
思い直すと前夜山から雪の崩落の音が絶え間なく聞こえていた。雪崩の注意が全く怠っていた。
社会人になり、ゲレンデスキーも山スキー(連休の春)も盛んになる。
その頃になるとスキー靴がプラスチックになる。
ところが苗場のトップで滑り始めるとスキー靴の底がパックリ外れる。
友人に外れたスキーを持ってもらい、片足で滑り降りた記憶がある。
スキー靴はドロミテだったと思う。
同期、先輩と志賀高原、万座温泉とよくゲレンデスキーをした。
1970年万座温泉でSAJ1のバッチテスト1級を取得(同期は2級)。
志賀高原へは上野発の夜行列車でよく行った。新聞に上野駅の写真で載ったことがあった。
また、1972年2月、湯田中駅から帰る時、TVであさま山荘事件の実況放送が流れていたのを思い出す。
よく行ったのは、ジャイアントコースから高天原に入るケースが多かった。
ジャイアントコースは何時もカリカリで手入れの悪いエッジでは歯が立たない。手前の丸池Aコースのコブがめちゃデカかったのを思い出す。
高天原ゲレンデの中央に宿かあり、その宿の息子(山本学?)が学生チャンピオンになった。その仲間と東舘山のレース出るためめ宿泊しておりその前日に宿主催の回転レースを催した。同期2人と参加。ポールセッターは山本学、同僚は5人でその他4?名。学生の1人が失格になったので5位入賞でTシャツをゲットした。初めてのレースで賞を頂いたのでよく覚えている。
結婚後家内と数回スキーに行っているが印象は薄い。
湯沢、赤倉に会社健保の保養所があったのでそこにはスキーに行っていた。また戸隠に同期夫妻と行ったのは覚えている。
新婚旅行で道央をドライブしたが、ニセコアンププリではまだリフトが動いていた。誰も滑っていなかったが、家内をレストランに待たして2度滑った。全く勝手なことをしたものだ。
山スキーは1971年夏に黒部立山アルペンルートが完成したので1972年の5月の連休より4−5年毎年訪れた。
当時のビンディングはジルブレッタでシールはシール(アザラシの毛皮)だった。
先輩3,4人とホテル立山に泊まり、雷鳥沢を登るのが定番コース。
1度、雷鳥沢を2度登ったり、劔沢を下り、焼き鳥を焼いたりした。全て先輩がしてくれた。勿論、一の越方面や山崎カールの下部も楽しんだ。
結婚後数年して山からが離れたがゲレンデスキーは毎年続けていた。
しかし、1985年2月にロンドン駐在に赴任する年は流石にスキーをしなかった。
その夏、シャモニーからロープウェイでブレヴァン展望台まで行った。
ボソン氷河でスキーをしているじゃぁないか。貸スキーで滑れるか聞いた所、通貨がフランスフランかイタリアリラのみでジュネーブから行ったためスイスフランしか持っていなかったため滑ることができなかった。
悔しい思いをしたのでその年の冬休みにオーストリアに出掛けた。
雪が少ない危険性があるのでオーストリアアルプスの山奥のスキー場に。残念ながら地名を思い出せない。しかし、杉山進が指導員として働いていた所で夜スクールの事務所に家族で招待してくれ杉山進の当時の写真を見せてくれた。スクールは家内、娘全て別々で家族も楽しんだ様子だった。
1986年の夏はイギリスのツアーでフランスに夏スキーに出掛けた。
のちにアルベールビルオリンピックのモーグル会場になったティーニュで、午前中が氷河でスキー(スキーコーチ付でビデオによる指導もあった)。この時にコーチはイギリスで有名なコーチだった。この当時まだカービングスキーではなかったが、スキーを傾け強く踏めばスキーが弓なりになる。その弧を利用して前に滑らせるとずれが少なく高速ターンができると指導された。まさにカービングスキーのテクニックだ。
午後はテニス、ラフティング等盛沢山で宿の主人に誘われてハーフラウンドのゴルフもした。また湖で初めてウインドサーフィンをしたが風もなくみじめな姿で立っていた。日本のジュニアのテニスチームが合宿していた。
1987年の冬は赴任の前の年に行われたサラエボオリンピックのサラエボにスキーに出掛けた。
その後サラエボも戦禍に見舞われ五輪の施設は廃墟と化した。サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都ではあるが、ユーゴスラビアは崩壊した。
スキー場はTバーリフトが多く、家内は不満、早々にスキーを切り上げ観光に。ギリシャ正教とキリスト教が混在し、民族的にも色々あり、チトー大統領がそれまでよくまとめていた。
それ以降家内はスキーを好まず、観光にした。
1989年1月に昭和天皇が崩御され、その3月に帰国した。
戻ってからはスキーは継続し、1999年に信州に赴任してからは信州でスキーを楽しんでいる。
ゲレンデスキーを投稿したのは2013年頃だがそれ以前も結構滑っている。
山スキーで印象に残っているのは2008年2月白馬天狗原BC凄い積雪で滑り出したら底がない。当時ファットスキーでなかったため片足に体重がかかるとバランスを崩し転倒。山スキーがこんなに難しいと思わなかった。
今はスキーの板が格段に進歩して実に滑りやすい。
過去の経験でゲレンデスキーで窒息死しそうになったこと三度程。急斜面の深雪で転倒、身体がスキーより下になり新雪が顔を覆う。呼吸ができなかった。
2015年2月の雪崩に巻き込まれたのもヤバかった。
スキーに関わる自分史は思い出せばきりがないが明らかに思い出として残っているのを羅列した。
平均寿命まで後5年、何とかそれまで健康寿命でありたい。5年は速い。
このようなことを書くのは先が短いと感じるからに違いない。
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