この歳になると心に移りゆくよしなし事を書きつくりたくなる。
スキーに関しては物心ついた時から記憶がある。
1950年頃小学生に上がるかどうかの年に道路(雪で車は通れない)でスキーを履いていた記憶がある。
小学校低学年の頃、隣の屋根の雪下ろしが済むと軒と雪が繋がる。屋根の上からスキーをしたことがある。今思うと結構な斜度のはず。
この頃のスキー用具は単板でビンディングはフィット(つま先の横に金具があり、皮ベルトでつま先を固定、金具横から皮ベルトと締め具が付いており踵で締める)、靴はスキー用のゴム靴。ストックは竹製だった。
スキーする場所は校庭に雪山を作って滑るかスキー発祥の地である金谷山に行って滑っていた。
1956年(小学4年)に初めて赤倉観光ホテル(日本初のスキーリゾート地)の裏山、前山ゲレンデで滑る。嬉しくて思う存分滑った記憶がある。
その後年数回赤倉、池の平に行った。その頃は田口(今の妙高高原)駅からスキーを担いで歩いていた。
ここ頃のビンディングはカンダハーに変わっていたし、靴は紐で結ぶ革靴になっていた。
1956年(小学4年)は、またイタリア、コルチナ・ダンペッツォで猪谷千春が回転で銀メタル、トニーザイラーが三冠王になった。
中学生になってトニーザイラー主演の「黒い稲妻」、「白銀が招くよ」の映画も忘れられない。「黒い稲妻」ではワックスにレコードを割って溶かしていた記憶がある。「白銀が招くよ」ではスキーの片足が外れ、1本スキーで広大な山を下る映像が未だに残っている。
中学時代のスキーは学校でのスキーはあまり記憶にない。
相変らず私的には赤倉、池の平には年数回と金谷山で滑っていた。
スキー板はイタヤの単板。兄貴はミズナラの合板(結構重かった)。その頃はヒッコリーの合板が最も人気があった。
まだこの頃のビンディングはカンダハーだった?
ラグリーメンという皮ベルトでスキーに縛り付けるビンディングがあったがあまりにも危険で一度も付けたことはなかった。
高校に入りその冬(1962年)頃にヘッドのメタルスキーを購入してもらった。誇らしげで嬉しかった。またビンディングはホープマーカーのリリースビンディングになりより安全になった。靴はまだ靴紐でダブル皮。
高校時代は冬の体育の授業は1週間をまとめて週1回午前の最後授業を止め家に帰り、スキーをもって金谷山に行く。午後の授業はスキーのみ。殆ど自由時間。
私的には相変わらず、赤倉、池の平へ。
疲れたので次回に続く。
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