あるお母さんから 頼みごとを言われました。
「先生、息子を山に連れて行ってください・・・」
夏休みが始まる直前でした。
「・・・」の私。
「あの子に思い出を作ってあげてください・・・」
当時4年生のA君のお母さんの目は真剣でした。
「かなりの距離を歩きますし、川で水遊びもします・・・」
「だから、それがいいのです。私には連れて行ってあげられませんし・・・」
はい、彼は心臓疾患を患っていまして、5年生で行く林間学校でも、参加できないのがほぼ判ったからです。
「お母さん、林間学校以上の山歩きをします。心臓に負担は避けられませんが…」
お母さんは続けます。
「連れて行ってあげてください。クラスで山や川で遊べるのは、○○の人生で最後だと思っています。どうか思い出を作ってあげてください・・・」
彼は双子でした。弟さんの心臓には異常は見られません。
「お母さん、もし山の中で倒れてしまったら どうすることもできません。命に関わって来ます。」
山を知っている方なら、このコースの真夏は健常者でもしんどいことがお判りになられるかと思います。
三宮から新神戸まで 歩きます。
新神戸から、布引貯水池を通りトゥエンティクロスで水遊び。それが終わったら、谷を詰めて摩耶山に登り、みんなで景色を見て、青谷道を下りて来て、そこから阪急王子公園駅まで、歩いて来るのです。
真夏にコレは 本当にきついです。
「うちの子に何かありましても一切先生に 責任を押し付けませんし、ご迷惑がかからないように学校にも交渉いたします・・・」
即答は避けて、悩みぬきました。
当時は、長女がまだ幼児で、次女は生まれていません。
万が一 何かあった場合は 流石に当時でも懲戒免職は 免れません。
私にも 生活がありました。家のローンも 始まったばかりですし・・・
しかし、少しでもしんどいようなら 私が彼を背負ったらいいことかな・・・彼は小学4年生男子なのに体重は25kgほどしかありませんでした。
当時は若かったし、子どもの体重25kgなどは、冬用のザックに比べたら軽いモノでした。
「よしっ。連れて行くかぁ・・・」
しかし、三宮から新神戸まで歩くのも へとへとで 布引の急坂では、少し顔色が悪くなってきました。
子どもたちは、河原でスイカ割りを楽しむためにデカいスイカを、2個、男女が協力しながら順番に力尽きるまで頑張って運んでは、交代するという普段学校では見られない姿が見られました。
彼も少しだけ持ちました。
しんどいけどスイカ持ちの順番が回って来たら、嬉しそうな顔をしていました。
川遊びの為に水着に着替え、みんなで「川ガキ」になって 遊びました。スイカはとんでもない所で割れてしまい、砂だらけに(*_*;
それでも みんな川で洗って 必死に食べていました。
彼は、遂に摩耶山に上がる桜谷道で ペースが落ちました。
しかし、目が真剣です。
みんなも それに合わせてくれました。
とてもじゃないが、この雰囲気・・・「背負うから、先生に乗りなさい」なんて声をかけられない空気が充満。
一歩一歩踏みしめるように 摩耶山頂に続く桜谷道を 歩きます。
そして、遂に山上を巡るドライブウェイに達しました。
後は、急坂はありません。
そして念願の山頂の掬星台に着きました!
そこに広がる景色パノラマには みんなの目がびっくりしていました。
なんせ 谷沿いに上がっていましたので、それまではまったく展望などなかったからです。
眼下に広がる神戸の街・・・
彼は、自分の足で 立つことができたのです。
彼は目を細めて 摩耶山から広がるパノラマを じぃーっと見ていました。
「おーい。帰りはケーブル乗ろうか?めっちゃ、こわいでぇ・・・ジェットコースターみたいやでぇ・・・」
「乗る!乗る!」の歓声が山上の掬星台に響き渡りました。
本当は、中腹にあるケーブル駅まで行くロープウェイを乗り継いだらよかったんですが、お金が足りない子が多くて・・・(計画では青谷道を降りる予定だったので)
摩耶ケーブルは最大斜度28度。結構な急こう配で有名です。
やっとケーブル駅に着いたら、普段からお調子者でお笑い系のB君が水筒を摩耶山頂に忘れて来たと・・・(*ノωノ)
はい、若い私は猛ダッシュして 山頂まで標高差230mを駆け上がり、掬星台の端っこに在った水筒を見つけて(天上寺跡のあの階段を 走り降りしましたっ)汗だくでケーブル駅に戻りました。※現在の私では、絶対に無理でしょうね。
それで みんなでワイワイ言いながら ケーブルの旅を楽しみました。
下駅に着いたら、もう三宮まで行くバスが待っていましたので、もう乗せました。
バス代は、20数人分まとめて私が払いました。
彼は、バスの中で眠りこけていました。
最大の力を発揮したのだと思いました。
疲れすぎて「夢」さえ みていないのやろなぁ・・・。爆睡とはコレを言うのですね。
それから一年が過ぎ・・・
5年生になった 彼。
林間学校には参加させないとの学校判断が下りました。
お母さんは、必死に学校に参加を求めましたが
学校の答えは「NO」の一点張り。
それは、学校として万が一あったら 責任問題に発展しますからね。
三宮から歩いて布引から、トゥエンティクロスを超え、摩耶山までのコースは彼にとって「エベレスト」だったのかもしれないですね。
心臓疾患があったのに、それほどのハードなコースを本当に彼は、よく頑張りましたね!
きっと、1人ではなく、クラスメイトの暖かいフレンドシップがあったから、彼も苦しくても諦めずに最後まで、皆と一緒に行動出来たんでしょうね。
それにしても、無理なお願いだと自覚しながらもjyunntarouさんに息子の事を頼み込んだ母親も、一つ間違えれば免職間違いなしの要望を引き受けたjyunntarouさんも、どちらも凄いなぁ‥‥‥‥と感じます。
昔でも、あまりなかった事だと思いますが、今の学校ならば、このような保護者と教師の関係は、まず絶対に有り得ない話ですね。
rinaさん こんばんは(^^)/
はい、この子は絵が得意な子で、いつも個性的な不思議な魅力の絵を描いていた子でした。
心臓疾患がありましたが、体育もしていました。
でも、精密検査で あまりよくない方に結果が出てしまいました。
随分と悩んだのですが、クラスの雰囲気もよくて 何かあれば助け合えるだろうし、背負うのもできますので、こんな自分に「お願い」をしてくるのにはかなりの「覚悟」を考えた上の母親の気持ちだったと思います。
本人も行きたい気持ちが強く、教師としてと言うより人間として「連れて行ってあげたい」の方が勝りました。
摩耶山頂(702m)に突き上げる桜谷道で,ほぼ歩くのが難しくなったのに、最後まで歩き通そうとする彼には、手は出せませんでした。
助けるのと、見守るのとは 違います。ここまでくれば自分の足で山頂に立ってほしい…。
それが教師としていいのか 悪いのかわかりません・・・
あの時の空気・・・現場にいたら 自力で上がらせてあげたいしか選択肢はありませんでした。
自分の足で、最後まで歩き通した彼は、本当にしんどかったと思います。
どんな小さな山でも それぞれによって エベレストだと 当時も思っていました。
今の学校は、保身だらけで 責任追及をされないようにばかりのアリバイ工作に奔走しています。時代が時代・・・埋もれていく自分に「喝」ですね。
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