加波山、神社参道巡り――頂上の超巨大岩場と信仰の背後に天狗伝承


- GPS
- 05:04
- 距離
- 9.1km
- 登り
- 714m
- 下り
- 685m
コースタイム
- 山行
- 4:49
- 休憩
- 0:14
- 合計
- 5:03
天候 | 雨から明け方曇、だんだんと晴れ、午後快晴、無風、温暖 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2019年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
「行きはよいよい帰りはこわい」、加波山神社の里宮から頂上の奥宮への参道が登山道で、とても歩きやすいです。私は下山ではちょっとだけ足を伸ばし、丸山(風力発電のところ)から一本杉峠まで降り、参道三号目に戻る帰路。問題は、一本杉峠からの下山林道でした。これ、もはや林道は7割で3割は暴れ龍がしでかした災害現場のよう。あるいは巨岩の乱立、そしてぬかるみと渓流。人が歩く道ではありませんでした。方向は間違ってないのだけれども、ほとんど遭難したよう。怪我をしなくてよかったです。ここは絶対に行かないでください。たぶんここは重機も入れないほどの荒れた状態なので、当分通行禁止にしたほうがよいと思います。 |
その他周辺情報 | トイレですが、2合目にお不動さんの宮があり、ここが5合目に直接行ける山間のとてもきれいなハイキングルートの入口でもあります。お堂の手前左に、トイレがあります。ありがたいことです。 |
写真
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
雨具
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
飲料
レジャーシート
コンパス
笛
計画書
ヘッドランプ
予備電池
GPS
筆記用具
ガイド地図(ブック)
ファーストエイドキット
常備薬
日焼け止め
保険証
携帯
時計
サングラス
タオル
ツェルト
ストック
カメラ
録音機
バッテリー
|
---|---|
備考 | ストックが役に立つところだったので、トレッキングキャップをはずして登りましたが、下山途中気づいたら、バスケットキャップの片方がぬかるんだ土の中のどこかでなくしてしまいました。ネジが弛んでいたからでしょう。ときどき必ず締まり具合を点検する必要がありました。 |
感想
今回の登山道は、台風の影響による倒木はありましたが、整備されていて比較的歩きやすく快調でした。山頂に神社がたくさんあると聞いており、比較的に平たいところにあちこちあるのだろうと想像していましたが、行ってみたら、全然違っていて、神社の社は、ほとんどが巨岩の上に孤立して建てられていて、その周囲には、おびただしい奇岩巨岩が立ち上がり、あまりもの迫力にただ驚きの声しかでないほどでした。これがどうして聖域かというと、そこに行ったら、巷で考えている邪心も悩みもみんなすっとんでしまうからなのではないかと、後になって思いました。そこで瞑想してみるとか、岩から気を頂くとか、そんなことはちっぽけな考えであり、行為であると思い知ることになると思います。それは行ってみないとわかりません。だから、苦労をして登ることには意味があるんだと思います。下山は道が荒廃していたので恐怖を堪能しました。令和の時代を迎えて、しかも冬至の翌日、太陽がこれからどんどん強くなるその第一日目に体験できた喜びはひとしおです。天狗さんにお礼をいいたいです。ありがとうございます。
●追記「加波山神社」について
加波山という山があることは、ほとんど知られていません。しかし、筑波山につらなる連山だと言えば、「そうか」と分かる程度ではないでしょうか(地元の方々には失礼な話で申し訳ございません)。まず、読み方がわかりません。ふつうに読めば「かなみやま」とかになります。「かばさん」というのが正解です。
しかし近代史を研究されている方なら、「加波山」に関わる事件・事故があり、よく知られています。
事件とは、自由民権運動の一つで、明治17年(1884)9月、栃木・茨城・福島の自由党員急進派16名が加波山を拠点に蜂起(暗殺計画)し、立てこもりに発展し鎮圧された事件がありました。事故は、昭和37(1962)年、9月20日、分航空自衛隊の練習機が尾根に墜落し2名の乗員が亡くなりました。今、当時の事故を物語るプロペラが山頂北側の石碑裏に残されており、また、殉死した乗組員の碑が山頂に近い南の尾根があります。
加波山に纏わる事件・事故は、今ではほとんど忘れ去れてた山の名になりました。
加波山は、平田篤胤の著『仙境異聞』という奇書に、天狗の剣術の修行場としてその名が出てきます。この書では、天狗の活動場として、岩間山(現:愛宕山)、南台丈(現:難台山)、吾国山、筑波山などとの関係でその名が出てきます。加波山はかつてから修験の場として、知る人ぞ知る有名な霊場であったようですが、現代にいたっては、一般にはローカルな山の名として筑波山の影に霞んでいるのではないでしょうか。
そのため「加波山神社」も、近くの鹿島神宮や香取神宮、笠間稲荷などの高名な神社からすると、無数にある地方の神社の一つにすぎません。
しかし加波山神社は、地元茨城では、地元のテレビニュースで冬至の日に行なわれる火渡りの祭が特集されて放送されてもいますので、地方では有名な神社です。また、登山家の間でも、筑波山に何度も登頂した人は、北に伸びる筑波連山の尾根の先に聳える加波山が、さらにその東方向に聳える吾国山や難台山とともに、気になる山として知られるようになりました。
私も加波山のことは、正直ほとんど記憶になく、言われてみれば「加波山事件というのがあったね」というくらいでしたが、加波山が気になったのは、令和元年5月3日に、愛宕山の十三天狗の祠への興味から、天狗の修行場とされた難台山を含む縦走登山をしたことがきっかけでした。吾国山や難台山の頂上からは、有名な筑波山ととにも、西に聳えて見える山並みが気になりました。私が吾国山の頂上当たりまで登って行ったときに、ラントレをして下ってこられる方とすれ違い、「どちらまで?」と問うと「加波山まで」というお返事でした。そこで知りました。西に聳えて見える、「あんなに遠くの山までこの人は走って登るのか!」。走って登山をすることにも仰天ですが、尾根では繋がっていない向うの連山まで遠征するなんて、驚きです。
加波山は、筑波山と尾根続きの標高709メートルの連山の一つです。筑波連山は、筑波山から北方向に、弁天山、きのこ山、足尾山、丸山、加波山、燕山、雨引山、御嶽山と尾根続きです。東側は石岡市、西側は桜川市に属していています。加波山の大きな特徴は、参朝に神社の社が連続して並んでいるところです。古くから修験の山であり信仰の山として崇められてきたことです。日本の山岳信仰の代表的な形態の一つと言っていいほどの山なのです。この連山で、なぜ加波山頂に神社の社が集中しているか? それは、登頂してみれば分かります。
加波山への登山道は、西側桜川市に属する山の麓の加波山神社付近にあります。麓には、「加波山神社」が一つではなく、関連の神社の名が複数ありました。一般的な視点からは、「加波山と名がつくんだから同じ神社なんだろう」くらいに思ってしまいますが、調べてみると、その関係は歴史的にもかなり複雑で、すっきりとは分かりません。明らかなことは、加波山を信仰対象として成り立っているというところは同じだということです。ところが、桜川市にある登山道の起点には、「加波山神社」が二つ以上あり、どういう関係なのか? どうして一つにまとまっていないのか、興味深いものがあり、調べました。
まず、登山道で調べると、ウィキにこうあります。
登山道は幾つかあるが、西麓の桜川市長岡の加波山神社本宮・親宮の里宮から山頂南側の本宮拝殿を経由して本宮本殿のある山頂に到る本宮路(本宮道)と、同じく桜川市長岡の加波山神社本宮・親宮の里宮から山頂北側の親宮拝殿・本殿を経由して本宮本殿のある山頂に到る親宮路(親宮道)がよく知られている。本宮路と親宮路は3合目の桜坊で分岐する。
東麓からは石岡市大塚の加波山神社中宮の里宮から山頂北側の中宮拝殿・本殿を経由して本宮本殿のある山頂に到る中宮路(中宮道)がある。
つまり、登山道には次の三つがあり、それぞれ里宮と山頂の社の関係があることが分かってきました。
一、本宮路(加波山神社本宮・親宮〜本宮拝殿〜本宮本殿)
二、親宮路(加波山神社本宮・親宮〜親宮拝殿〜親宮本殿)
三、中宮路(加波山神社中宮・〜中宮拝殿〜中宮本殿)
登山道の名称には、加波山神社の歴史の変遷に関係が深そうです。千数百年以上の昔から、支配する人間の都合で神社の管轄がいろいろと変わってきた経緯が、それぞれの神社のホームページなどから分かってきましたが、それはうまく説明できるほど理解がすすみません。今明らかなことは、登山道の入口にある主要な二つの神社は、氏子が違うというところから、人間からすると別な神社ということになります。加波山頂上でも、理屈をこねて紹介するなら、親宮本殿・中宮本殿・本宮本殿とそれぞれ本殿も別れている理由が分かりました。
登山道として三つがあってそれぞれ名がついているように、神社信仰も三つに分かれていた時代の経過があったわけです。神社や寺院は、時代の支配体制と関係が深いですから、人間の勢力の都合で、神への信仰も競い合ったりして譲らず相いれないことが人間社会ではしばしばです。宗教も宗派も無数にありますが、数がそれだけあるということは、神や仏への信仰もそれぞれが異なるわけで、異なるからこそ宗旨宗派ができあがるわけです。そういう事実からすれば、登山口にある加波山神社が今、加波山三枝祇神社と加波山真壁拝殿の二つに分かれているのは、歴史の流れからありえることと理解できます。
加波山三枝祇神社は、加波山神社本宮と加波山神社親宮とも言われ、今は一つにまとまっています。山の頂上には南端に本宮拝殿があり、北端に親宮拝殿があって、山頂の本宮本殿と親宮本殿をそれぞれに祭っています。
加波山神社真壁拝殿は、山の東エリア、石岡市にある加波山神社八郷拝殿と対になっており、頂上にある「中宮本殿」を東西から遥拝する構造になっていたのです。
ところで、登山道は現在、本宮路と親宮路は知られていますが、東側から登る中宮路もあることが分かりました。それで調べてみましたが、中宮路からの登山した記録はみつかりません。登山道は必ずあるはずですが、今は整備がされておらず、閉鎖されているのでしょうか?
加波山山頂に、信仰の本体が集中しているのは、この山が巨大な岩の塊であるからでしょう。巨石や奇岩は昔から人々の信仰の対象となってきましたが、加波山そのものがまさに岩の塊であることが、頂上に登れば明白です。とにかくその巨岩奇岩の存在感には圧倒されます。それだからこそ、加波山中腹には石切り場が多数あり、広大な石切り場を目にします。加波山の西側(真壁エリア)周辺は花崗岩、つまり御影石の産地として有名で桜川市(旧真壁町)は石材の町として全国的に知られています。そして加波山の東側(八郷エリア)は、葉たばこの産地でした。加波山頂近くに「たばこ神社」が、中宮本殿の摂社として建立された理由がわかりました。
加波山神社八郷拝殿(石岡市大塚)のホームページには創建について次のように書かれております。
加波山神社は、第十二代景行天皇の御代(約二千年前)日本武尊の御東征(現在の東北地方を平定)に当たり、加波山に登り、三神(天御中主神・日の神・月の神)を祭り、社を建て加波山天中宮が創建されたと伝えられています。延暦二十年(西暦800年)に征夷大将軍、坂上田村麿の御東征に際しても当社に戦勝を祈願され、大同元年(西暦868年)に社殿を寄進されました。
弘仁五年(西暦809年)には、従五位下を朝廷より賜り、第五十二代嵯峨天皇より多数の御神宝が奉納されました。現在は、天皇の御宸筆(ごしんぴつ:天皇の自筆)の掛軸のみが残されています。江戸時代にはいると加波山大権現と称し、別当寺院が三社を支配するようになり、山伏・修験者の真言密教加波山三光流の道場・霊場として栄えました。
また、「毎年九月には、巨大きせるを加波山山頂まで担いで登る〈きせる祭〉が行われます」とあり、御祭神は次のとおりです。
国常立尊(くにとこたちのみこと)
伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
伊邪那美尊(いざなみのみこと)
加波山三枝祇神社本宮・親宮(桜川市長岡)のホームページには、次のように、加波山三社にも触れて書かれています。
天照大御神の御母弉冊大神を祭神として神母山神社と創祀せられる。常陸国造その祖神を配祀することにより、三枝祇神社と改称する。その後、真壁城主家幹奉納額に著す「加波山」その名を戴き、また総本社である本宮を入れ加波山三枝祇神社本宮と現存す。
平城天皇 大同年間(806)沙門入山し別當寺を創始し、神主 僧侶両部神道 加波山大権現の年代へと入る。名霊山にて各地より神仏信徒の参籠する者多く互いに錬磨に励むが相和せず、其の勢力の成果を顕わす為に、室町後小松天皇代 分離各立をする。そのことにより、本宮は正憧院、親宮は円鏡寺に創始、中宮は文珠院(雲照寺末)の管理下に入り、大権現時代になる。神仏分離令(慶応四年、1868)により廃仏棄釈、明治年間、古に後り神社となる。本宮は加波山三枝祇神社本宮、親宮は三枝祇神社親宮、中宮は加波山神社(石岡市旧八郷町)へと社名を変更致し、三社、宮本・太田・友部の各宮司奉職へと進む。
御祭神は次です。
伊弉册大神
速玉男大神
事解男大神、等
創建からの経緯として、次のように書かれていますが、かなり複雑です。
神社は、真壁郡(桜川市真壁町)と新治郡(石岡市大塚旧八郷町)との境上に秀聳える加波山上(標高709m 三角点)加波山三社の首座として、又、加波山信仰の総本山として、日本武尊の御創建にて始まると伝えられる本宮御本殿(奥ノ院)が四方を見渡し、鎮座されて居ります。 創始最も久遠にして、実に第十二代景行天皇四十一年皇子日本武尊東夷(福島、宮城)御征伐に際し、大任を成し遂げ帰途この地に到り神託によりて神詞を建て三神を勧請、奉祀された事に起源と伝えられる御社殿は神護景雲二年(768)奈良時代に創祀され、古書、常陸国誌、三大実録「貞観十七年十二月二七日丁丑、常陸国正六位上、三枝祇神従五位」(875)の所載社である。
天慶年間、平将門、小山義政二乱により上代の規模失いましたが、建久、天文の間において、源頼朝、真壁長幹、家幹等の施資により社殿その他の建物改造ありと伝う。
天明年間(1781)火災にありたれば、社殿の再建致す。社殿の破損酷く、その都度修復・修繕を繰り返しが、明治十六年、崇敬者により改築する。
當山も八百年代に沙門入山し、別當寺神主 社僧時代に入り、神仏信徒の修行によりて錬磨及ぶ霊場となり、加波山本宮権現、加波山大権現と称し、三社分立に到るが、藩主・武将の祈願所と定め多く崇敬される。
社殿も国氏、郡司、或は武内等の寄進に依りて栄膳にあたるも、天文十五年八月(1546)「加波山三枝祇社壇」名の真壁城主安藝守家幹、改築記念寄進額が、また本宮大神は貞観十六年より数次昇階ありて、文政三年(1820)正一位の宣旨を賜り、今尚「勅宣、正一位本宮、加波山大神社」神祇官領勾當長侍卜部朝臣良長と認める寄進額が奉納されている。
慶安元年(1648)御朱印、真壁加波山社領百石を有し、明治初年 廃仏棄釈により神社に復元し、山岡鉄舟の書遙拝殿の額を所持し、また合祀殿として長岡に鎮座致す。
古より関東にて東の方位除社として著明でもあります。
※大正時代に親宮社務社殿管理を受け、護持運営を本宮に於いて致して居ります。
以上。ホームページから部分引用。
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