街道歩き 舞阪宿から御油宿


- GPS
- 56:00
- 距離
- 45.2km
- 登り
- 201m
- 下り
- 162m
コースタイム
2日目:二川宿本陣-岩屋観音-吉田宿-吉田城-吉田大橋
3日目:菟足神社-御油宿-御油松並木-赤坂宿大橋屋
天候 | 1日目:曇り 2日目:晴れ 3日目:曇り時々雨 |
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過去天気図(気象庁) | 2013年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
コース状況/ 危険箇所等 |
写真
感想
★白須賀までが静岡(遠江)、静岡県内22の宿場ともお別れ。いよいよ三河へと国境を越えます。 新居、白須賀、二川、吉田、御油 の5宿です。
★関東では見ごろを過ぎた桜が街道を行く先々でまさに満開!! 2日目は晴天で穏やかな陽気に恵まれ、文字通り街道歩きに花を添えてくれました。
★季節の移り変わりを肌で感じる事が出来るのも楽しみの一つ。1ケ月前は寒風の中、身を縮めながらの旅でしたが暖かな春はそっと足早にやってきて、そして私たちの背中を押してくれているようです。
★今回の宿場、街道は見ごたえのある史蹟が数多く残っています。舞阪の脇本陣、箱根と共に厳しい取り調べがなされた新居の関所跡、二川の本陣と旅籠屋、また赤坂宿で唯一残る旅籠「大橋屋」。更に加えて御油の松並木etc・・ と江戸時代の旅が蘇った3日間でした。
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◆岐佐神社:古事記の因幡の白兔に続く話で大国主の命が兄君達の嫉妬により焼けた岩を落され大やけどを負い致命傷になったとされる「赤石」が祀られている
◆舞阪宿脇本陣:1838年建築「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていた 旧東海道で唯一の脇本陣遺構
◆雁下(がんげ):舞阪宿は東西交通を結ぶ今切の渡しの渡船場で雁下とは階段状になっている船着場のこと 北雁下は大名・役人用、本雁下は武家用、南雁下は庶民・荷物の積み降ろし用とここでも身分制度が確立されていたことを偲ばせる
◆新居関所跡:今切関所として1600年に設置された 浜名湖畔に建ち構内には今切渡しの渡船場があり浜名湖を往来する旅人の監視と「入り鉄砲と出女」を取り締まった 現存している建物は安政2年から5年にかけて建て替えられたのもで全国で唯一現存する関所建物として国の特別史蹟に指定され保存公開されている
◆棒鼻跡:駕籠の棒先の意味で新居宿の西境 一度に大勢の人が通行できないよう土塁が突き出て枡形をなしていた
◆白須賀宿:潮見坂下の元町に位置していたが宝永4年の大地震による津波で壊滅し現在の場所に移された
◆潮見観音:備前国の領主、池田綱政公が参勤交代の折、白須賀宿の陣屋に泊っていた すると公の夢の中に観音菩薩が現れ危険がせまっているからすぐに出立するよう告げた 驚いた公は言われた通りその夜のうちに出発したが、その数刻後、大きな津波が押し寄せた 一命をとりとめた公は感謝の気持ちを込め灯篭などをこの地に寄進したという
◆曲尺手:(かねんて)道路が直角に曲がっている 軍事的な目的の他、大名が鉢合わせにならないようにと工夫された
◆防火樹:津波の難を逃れ潮見坂下から坂上へ宿替えしたが冬期に西風が強くたびたび火災に遭った 火をくいとめるべく火除けとして常緑樹で火に強い槇が植えられた
◆二川宿本陣:1807年から1870年まで本陣職を務めた馬場家の遺構 間口17間半、敷地面積525坪、建坪181坪 現存する本陣は草津とここ二川の2ケ所で大変貴重な建物 隣接の庶民の宿 旅籠屋「清明屋」は1817年に建てられ主屋・繋ぎの間・奥座敷で構成された旅籠屋建築の様式を残している
◆岩屋観音:諸国巡業中の行基が岩屋山の景勝を愛し千手観音を岩穴に安置したのが起源とされる 山上の聖観音立像は1765年建立 現在の像は昭和25年に再建されたもの
◆吉田城址:1505年今橋城築城 1590年池田照政(輝政)が城主となり整備拡張された 戦前は歩兵第18連隊の兵営として、現在は豊橋公園として利用されている
鉄櫓下北面と西面の石垣は後世の手直しの跡が無い池田輝政時代のものとされている また花崗岩に彫られている印は「石垣刻印」と呼ばれ築城工事を担当した大名、家臣の印といわれ、50以上確認されている
◆船町:吉田湊は豊川舟運の終点としてまた伊勢や江戸への航路の起点として栄え、三河最大の湊であった
◆聖眼寺:境内には文学史研究上価値の高い松葉塚がある 「松葉(ご)を焚いて手拭あふる寒さ哉」芭蕉の句が古碑松葉塚に刻まれている
◆菟足神社:祭事に猪の生贄を供えていたが三河国司、大江定基がその残忍な有様を見て出家、唐に留学し寂照法師となったことが今昔物語に書かれている
◆御油の追分:浜松から浜名湖の北を通る姫街道がここ御油で合流する 新居の関所は特に女性に厳しかったことから、女性は関所を回避する姫街道を選択したと推測される
◆御油宿:御油という珍しい地名は持統天皇が近くの宮路山に行幸されたとき、油を献上したという伝説に由来する 次の赤坂宿までは2KM足らずで両宿では客の取り合いをする宿命を背負った
◆御油松並木:御油宿と赤坂宿の間に600M続く 宿場の制を定めた家康は奉行の大久保長安に植樹を命じ650本の松が植えられた 現在は100年以上の古木30本と補植松250本で江戸時代の松並木の面影を伝えている
◆旅籠大橋屋:赤坂宿で江戸時代から残る旅籠 現在も宿泊可 随所に職人の匠の技を見ることができる
コメント
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mizukiです。
いよいよ、三河入り! 今回は3日かけて歩かれたようですが、昔の普通の速さで歩く旅人にとっても、3日位の行程だったのですか?
できたら、保存してある旅籠のうちのどこかに1泊してみたいものですね。
徳川総本家のお膝元だけあって、史跡や遺構の立派なこと!! これから、どんどん見ごたえが出てきそう。
「曲尺手」は、宿場町だけでなく、城下町にもよく見られる防衛の工夫のようですね。私は水戸なのですが、旧市街には、同じような通りの工夫があります。もっとも、今は再開発されて、碁盤の目のように道路を交差させてしまった地域が多くなってしまいましたが・・・。
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