記録ID: 3147768
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ハイキング
東海
大平城跡 (おいだいらじょうあと ) 太平洋富士見平
2021年05月04日(火) [日帰り]


- GPS
- 10:29
- 距離
- 8.7km
- 登り
- 252m
- 下り
- 225m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 2:00
- 休憩
- 0:50
- 合計
- 2:50
14:45
3分
スタート地点
14:48
14:52
0分
五体力神社
14:52
15:35
49分
大平城址
16:24
16:27
68分
太平洋富士見平
17:35
ゴール地点
大平城跡(おいだいらじょうし)と太平洋富士見平を歩いた。大平城も4/28,5/2に行った三ケ日の鯉山城、以前訪れた三ケ日の千頭峯城と同様に井伊氏の城で皆落城した様だ。
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
大平城跡の道は荒れている。観光ではない。歩きにくい道、シダが覆いかぶさり、登頂経路はその問題だらけの1本だけの様だ。あの道を引き返す気にはなれず地形を読んで尾根を下った。以後は舗装道路。 |
大平城は、南北500メートル、東西400メートルの南北朝時代の山城(尾根式複郭型山城)である。現在、樹木 に覆われているため、外観では普通の山にしか見えないが、山の南側は複雑に谷が入っており、北側と西側は断 崖となっている。また、城の南側前方には灰ノ木川が流れ、天然の堀になっている。東側は尾根続きとなってい るため、大規模な堀割が造られている。城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の二区画に区分され、一城別郭の形態を成し、 北城が中枢部で、南城は二次的機能を持っていたと考えられる。 大平城は、南朝側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれた。
井伊氏は、 三嶽城を中心に、南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めた。 井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王(むねよししんのう)を迎え、遠江国の南朝勢力の中心となった。 大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰(こうのもりやす)率いる北朝軍の攻防戦は、暦応二年(延元四年・1339年)から 翌三年(興国元年・1340年)にかけてくりひろげられた。この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」(るりさんねんろくざんべんのうらがき)に詳しく書かれている。
井伊氏は、 三嶽城を中心に、南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めた。 井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王(むねよししんのう)を迎え、遠江国の南朝勢力の中心となった。 大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰(こうのもりやす)率いる北朝軍の攻防戦は、暦応二年(延元四年・1339年)から 翌三年(興国元年・1340年)にかけてくりひろげられた。この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」(るりさんねんろくざんべんのうらがき)に詳しく書かれている。
西に向かって進み始めたら柿畑を消毒中。道路の先の白煙は農薬の霧。スピードスプレヤーというロケットの様な車で柿やミカンの木の間を走って農薬を散布する。私はアレルギーなので引き返して予定ルートを逆走することにした。
太平洋富士見平 ヤマレコのみんなの足跡が立ち寄る場所がありそこに立ち寄るルートを作成したが多分そこだろう。ルート作成時にはストリートビューなどはあまり見ないようにしている。歩いて発見することを優先。
装備
個人装備 |
ウェストバッグ
携帯
ヘッドランプ
予備電池
反射タスキ
行動食
飲料
マスク、カッター
|
---|
感想
大平城跡の登りはひどい藪状態。山頂に通じる道は多分これ1本。鯉山城址は地元で近かったし、国有林であることを確認してエンジン式草刈り機で制覇したがここは遠くてよその縄張りだし急斜面で草刈り機は無理。次回はやはり剪定鋏を持参しよう。 太平洋富士見平はどのような場所かわからないで出かけたが展望が気持ち良いところだった。 偶然見つけたお地蔵さんの社にお願いがかなったお礼の穴のあいた石が山積みになっていた。 今日5m以内2m以上に接近した人は5人だった。いつも0人、多くても2人位なのにゴールデンウィークは人出が多いのかな?
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