記録ID: 4041704
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ハイキング
奥武蔵
日和田山ー越上山
2022年02月28日(月) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 05:42
- 距離
- 15.7km
- 登り
- 888m
- 下り
- 821m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:08
- 休憩
- 0:33
- 合計
- 5:41
距離 15.7km
登り 893m
下り 833m
15:23
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
| 武蔵野線(新習志野行) 13.0km 6号車 | 08:31-08:44[13分] | 220円 ◇新秋津/秋津 2番線着・1番線発 [10分待ち] | 西武池袋線(小手指行) 21.9km | 08:54-09:04[10分] | 346円 ◇小手指 3・4番線発 [6分待ち] | 西武池袋線(飯能行) ↓ 中前 | 09:10-09:30[20分] ◇飯能 [2分待ち] | 西武秩父線(西武秩父行) 4.8km | 09:32-09:40[8分] ■高麗 1番線着 =========== 山歩き =========== ■吾野 1番線発 | 西武秩父線(飯能行) 14.1km 前・やや後 | 15:36-15:57[21分] | 409円 ◇飯能 [8分待ち] | 西武池袋線準急(池袋行) 21.9km | 16:05-16:37[32分] ■秋津 2番線着 =========== 立ち呑み =========== ■新秋津 1番線発 | 武蔵野線(府中本町行) 13.0km | 17:10-17:23[13分] | 220円 ■府中本町 2番線着 交通費合計:1195円 |
写真
以下、説明看板を写す。
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■台の高札場
日高市指定文化財 史跡 昭和57年12月8日 指定
江戸時代、幕府は定めた法度(はっと)や覚書(おぼえがき)などを書き記した板札を、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りが多く、目に触れやすい場所に掲示していました。人々を見下ろすように高く掲げられた板札の掲示施設を高札場といいます。この高札には「キリスト教は禁止されているが、信仰をする者を届け出た者には褒美を上げよう。しかし、隠したりした場合は、名主、五人組にも罰を与える。」と切支丹禁制(きりしたんきんせい)に関わる内容が記されています。
この高札場は、昭和60年に復元されたものです。
令和3年12月 日高市
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■台の高札場
日高市指定文化財 史跡 昭和57年12月8日 指定
江戸時代、幕府は定めた法度(はっと)や覚書(おぼえがき)などを書き記した板札を、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りが多く、目に触れやすい場所に掲示していました。人々を見下ろすように高く掲げられた板札の掲示施設を高札場といいます。この高札には「キリスト教は禁止されているが、信仰をする者を届け出た者には褒美を上げよう。しかし、隠したりした場合は、名主、五人組にも罰を与える。」と切支丹禁制(きりしたんきんせい)に関わる内容が記されています。
この高札場は、昭和60年に復元されたものです。
令和3年12月 日高市
以下、説明看板を写す。
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水天の碑(すいてんのひ)
所在地 日高市大字台
水天の碑は、天保年代(1830-1844)に繰り返された旱魃(かんばつ)、大洪水などの天災や水難事故を鎮めるために、大村の人々が建立したものである。この碑は、高麗川を利用した西川材運送のための筏流しとも深い関係がある。筏流しは江戸時代初期から始まったと伝えられている。天明時代(1781-1789)には、更に災いが度重なり、記録によると、この地方を飢饉が襲うなど、災難が続いて起ったので、この「水天の碑」の建立の際には、五日五夜の大念仏の行事が催されたと伝えられている。このようにして建てられた水天の碑も、明治になって、車馬の発達と共に筏流しが衰退したこともあって、今では忘れられた存在となっている。
昭和57年3月 埼玉県(←上から「日高市」)
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水天の碑(すいてんのひ)
所在地 日高市大字台
水天の碑は、天保年代(1830-1844)に繰り返された旱魃(かんばつ)、大洪水などの天災や水難事故を鎮めるために、大村の人々が建立したものである。この碑は、高麗川を利用した西川材運送のための筏流しとも深い関係がある。筏流しは江戸時代初期から始まったと伝えられている。天明時代(1781-1789)には、更に災いが度重なり、記録によると、この地方を飢饉が襲うなど、災難が続いて起ったので、この「水天の碑」の建立の際には、五日五夜の大念仏の行事が催されたと伝えられている。このようにして建てられた水天の碑も、明治になって、車馬の発達と共に筏流しが衰退したこともあって、今では忘れられた存在となっている。
昭和57年3月 埼玉県(←上から「日高市」)
日和田山登口の駐車場に【田部井淳子顕彰碑】がある。以下、碑文を写す。
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「日和田山からエベレストまで」
1975年、世界で女性初のエベレスト登頂を果たした田部井淳子さんは、その後海外の最高峰を次々と登攀、私たちに感動と勇気をくださいました。その偉業の基礎となったのが、若き日夫の政伸さんと通った日和田山での登山訓練でした。
また晩年にはリハビリのために何度も訪れ、登れた喜びをかみしめていたそうです。最後まで日和田山と高麗の里を愛した淳子さんの生き方に感謝し記念プレートを設置します。
2019年10月20日 日和田山からエベレストへの道有志の会
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「日和田山からエベレストまで」
1975年、世界で女性初のエベレスト登頂を果たした田部井淳子さんは、その後海外の最高峰を次々と登攀、私たちに感動と勇気をくださいました。その偉業の基礎となったのが、若き日夫の政伸さんと通った日和田山での登山訓練でした。
また晩年にはリハビリのために何度も訪れ、登れた喜びをかみしめていたそうです。最後まで日和田山と高麗の里を愛した淳子さんの生き方に感謝し記念プレートを設置します。
2019年10月20日 日和田山からエベレストへの道有志の会
北向地蔵尊に到着。以下、説明看板を写す。
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毛呂山町指定民俗文化財 有形民俗文化財
北向地蔵尊(きたむきじぞうそん) 平成27年3月19日指定
有名な「鬼押出し(おにおしだし)」(群馬県)ができた天明3年(1783)の浅間山大噴火は、その後、何年もの間、東北地方を中心に飢饉や疫病をもたらしました。
そこで、村人たちは、悪疫の流行を防ぐため、天明6年(1786)に岩舟地蔵尊(栃木県栃木市)より分身を譲り受け、岩舟地蔵尊と向かい合うように建て、村の守護神としました。
北の方を向いて立っていることから「北向地蔵」の名で呼ばれ、現在では男女の逢瀬をとり持つ縁起地蔵として、人々に親しまれています。
基礎正面には、奉納した村人の名とともに<右 白子ヨリ 子ノ権現道>、<左 横手ヨリ 大山道>と道案内が刻まれています。
北向地蔵尊は、村人を見守るとともに、信仰の道を往来する人々の安全を祈る道標でもありました。
平成30年1月 毛呂山町教育委員会
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毛呂山町指定民俗文化財 有形民俗文化財
北向地蔵尊(きたむきじぞうそん) 平成27年3月19日指定
有名な「鬼押出し(おにおしだし)」(群馬県)ができた天明3年(1783)の浅間山大噴火は、その後、何年もの間、東北地方を中心に飢饉や疫病をもたらしました。
そこで、村人たちは、悪疫の流行を防ぐため、天明6年(1786)に岩舟地蔵尊(栃木県栃木市)より分身を譲り受け、岩舟地蔵尊と向かい合うように建て、村の守護神としました。
北の方を向いて立っていることから「北向地蔵」の名で呼ばれ、現在では男女の逢瀬をとり持つ縁起地蔵として、人々に親しまれています。
基礎正面には、奉納した村人の名とともに<右 白子ヨリ 子ノ権現道>、<左 横手ヨリ 大山道>と道案内が刻まれています。
北向地蔵尊は、村人を見守るとともに、信仰の道を往来する人々の安全を祈る道標でもありました。
平成30年1月 毛呂山町教育委員会
指道標に【鼻曲山(はなまがりやま)447m】というのが出てきた。面白い名前。帰宅後調べたら、草津にも【鼻曲山(1655m)】があって、「東京周辺の山350」等にも選ばれていた。いつか鼻曲山を登ってみたい。
「チヨダ式新國光號」とはなにか? 帰宅後にnetを調べたら、「明治時代末に開発された足踏式脱穀機」のことだと判った。この写真は宣伝看板だと思ってとったのだが、なんと脱穀機そのものであることも判った。もっと多面的に写真を撮ってくればよかったと反省中。
参照→https://ainame60.exblog.jp/15924850/
参照→https://ainame60.exblog.jp/15924850/
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