記録ID: 4682620
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ハイキング
房総・三浦
湘南平、高麗山
2022年09月15日(木) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:10
- 距離
- 6.2km
- 登り
- 295m
- 下り
- 281m
コースタイム
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年09月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
危険箇所はありませんが、過去滑落30Mの死亡事故もあっだそうです。 |
写真
高田保
高田保(1895〜1952)
高田保は明治28年3月28日茨城県土浦町生まれ。大磯には太平洋戦争が激戦を極めていた昭和18年2月から住み始めました。昭和20年に東京日々新聞に連載された「ブラリひょうたん」では、占領下の政治・経済・社会・文化の百般にわたる風刺的評論執筆が世の好評を得ました。また、昭和24年からは島崎藤村亡き後の町屋園 ( 藤村邸 ) に住み、大磯町の社会教育に力を尽くし教育委員長を務めましたが、昭和27年2月20日午前11時15分行年57才の若さで亡くなりました。葬儀は地福寺で行われました。代表作に『天の岩戸』『馬鹿』等がある。
(大磯町HPより)
高田保(1895〜1952)
高田保は明治28年3月28日茨城県土浦町生まれ。大磯には太平洋戦争が激戦を極めていた昭和18年2月から住み始めました。昭和20年に東京日々新聞に連載された「ブラリひょうたん」では、占領下の政治・経済・社会・文化の百般にわたる風刺的評論執筆が世の好評を得ました。また、昭和24年からは島崎藤村亡き後の町屋園 ( 藤村邸 ) に住み、大磯町の社会教育に力を尽くし教育委員長を務めましたが、昭和27年2月20日午前11時15分行年57才の若さで亡くなりました。葬儀は地福寺で行われました。代表作に『天の岩戸』『馬鹿』等がある。
(大磯町HPより)
曽我十郎 硯水の池
この池は、鎌倉時代初期の武士、「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我兄弟の弟、五郎が水を飲もうと地面を強く踏みつけた時に湧き上がった、という伝説が残されています。
また、兄、十郎の恋人で街一番の美人として有名であった虎女という女性は平塚の山下で生まれ、大磯宿で遊女をしていました。十郎が虎女に思いを綴った恋文を出すときも、この水を筆の硯水として使った、と言われています。
十郎は仇討ちを遂げて亡くなりすが、虎女は十郎のため、山下の地で菩薩地蔵を安置して、その一生を十郎の供養に費やしたと言われています。
(大磯町HPより引用)
この池は、鎌倉時代初期の武士、「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我兄弟の弟、五郎が水を飲もうと地面を強く踏みつけた時に湧き上がった、という伝説が残されています。
また、兄、十郎の恋人で街一番の美人として有名であった虎女という女性は平塚の山下で生まれ、大磯宿で遊女をしていました。十郎が虎女に思いを綴った恋文を出すときも、この水を筆の硯水として使った、と言われています。
十郎は仇討ちを遂げて亡くなりすが、虎女は十郎のため、山下の地で菩薩地蔵を安置して、その一生を十郎の供養に費やしたと言われています。
(大磯町HPより引用)
岡野金次郎の碑
岡野金次郎は、明治から昭和の時代に活躍した登山家ということです。
日本人で初めて槍ヶ岳に登頂し、日本山岳会の設立にも尽力したそうです。
晩年には平塚に移り、戦後は亡くなるまで平塚に住み続けたそうです。
岡野金次郎は、明治から昭和の時代に活躍した登山家ということです。
日本人で初めて槍ヶ岳に登頂し、日本山岳会の設立にも尽力したそうです。
晩年には平塚に移り、戦後は亡くなるまで平塚に住み続けたそうです。
化粧井戸
鎌倉時代、大磯の中心は、化粧坂の付近にあったと思われています。
曽我兄弟 兄・十郎祐成との悲哀物語で知られる虎御前もこの近くに住み、朝夕この井戸の水を汲んで、化粧をしていたことからこの名が付いたといわれています。
鎌倉時代、大磯の中心は、化粧坂の付近にあったと思われています。
曽我兄弟 兄・十郎祐成との悲哀物語で知られる虎御前もこの近くに住み、朝夕この井戸の水を汲んで、化粧をしていたことからこの名が付いたといわれています。
撮影機器:
感想
なかなか来る機会がなかったのですが、自宅から近いし、景色は良いし、整備もされていて良いルートだなと思いました。
冬場の景色の良い時にまた来ようかなと思いました。
湘南平の展望台に入れる時間にしたら良かったです。
景色の良いレストハウスも気になります。
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