街道歩き 東海道57次淀宿から京橋


- GPS
- 56:00
- 距離
- 36.4km
- 登り
- 128m
- 下り
- 136m
コースタイム
2日目:御殿山-枚方-鍵屋-守口
3日目:守口-関目-京橋-大阪城-高麗橋
天候 | 1日目:晴れ 2日目:晴れ・曇り 3日目:雨・曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2014年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
感想
*57次後篇は石清水八幡宮から始まりました。
*淀川左岸に築かれた文禄堤をベースとした街道をひたすら大坂へ向かって歩きます。
*船の街道と呼ばれる淀川、往来する人は上りは東海道を歩き下りは船で下るのが常だったようです。
*大坂城・・大坂の陣から400年 「大坂夏の陣図屏風」は激戦となった戦闘が克明に描かれまた大坂町人の逃げ惑う様など迫力満点です。 注目すべきは京橋から京街道を石清水八幡宮へ向けて長い行列を作って逃げていく様子が描かれている事。まさにその反対から歩いてきたのだ!と屏風にのめりこんでいました。
*大坂から京都へ向かう京街道 逆に伏見から大坂へ向かえば大坂街道。東海道57次のゴール高麗橋は三条大橋のような華やかさはありませんでしたが、大津-大坂間55KMを完歩し、江戸日本橋からの旅「東海道57次」は最終地点に到達です。
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◆石清水八幡宮:源義家がこの地で元服、八幡太郎と名乗った。またエジソンの電球は八幡の竹で作ったフィラメントが使われた。
◆久修園院:宗覚律師は多能の人で諸仏像、大涅槃図、両界曼荼羅図、天球儀、地球儀等々を制作
◆楠葉砲台場跡:勝海舟の設計で五稜郭で採用された西洋風の築城方式が用いられた。表向きは外国船の撃退、幕府に敵対する尊王攘夷派の志士を京都へ入れないという裏の理由もあった。
◆片埜神社:大坂城築城に際し鬼門鎮護の社として定めた。三間社流造、檜皮葺で細部にわたり桃山時代の華麗な様式を示している。
◆天野川:四条畷市田原を源流とし淀川へ合流する川砂白くゆるやかな流れは天上の銀河とみなされ平安貴族のあこがれの歌どろこであったとか。
◆枚方宿:4つの村で構成される大きな宿場で東西1.5キロほどに多くの旅籠や店が並んでいた。
◆鍵屋:三十石船の船持の宿として栄えた。くらわんか船は船客相手に乱暴な言葉で飲食物を商っていた淀川の名物。
◆茨田堤:茨田堤という大きな碑、改修工事の折流れが強く堤が切れてしまう箇所に人柱に選ばれた男女の話が日本書紀に書かれている。
◆大坂遷都:慶応3年の大政奉還の後、慶応4年3月22日(9月に明治と改元)に大久保利通が大坂遷都を目論み、明治天皇を京都から大坂のこの地に行幸いただいた。お泊りになられたのが難宗寺。盛泉寺には内侍所が置かれた。守口は一夜の帝都となるも4月11日江戸城無血開城が実現し大坂遷都論は幻と化した。
◆高麗橋:橋名の由来には、東詰付近に難波高麗館(なにわのこまのむろつみ)が置かれていた説と、朝鮮国使来朝のために架橋された説などがある。
江戸時代から明治初期にかけて、京街道、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道などの起点が順次高麗橋に変更され、明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点となった
コメント
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4次:55kmを追加踏破して、とうとう、ゴールされましたね!
おめでとうございます!
あたかも、水平(東京=大阪)と垂直(歴史の積み重なり)から、長い歴史の沢を遡上されたような旅でしたね。私も一緒に勉強をさせて頂きました。有難うございました。
私は、平瓦を漆喰で積み上げた信長塀や鍵屋の佇まい、大阪城の石垣など、長い年月を経て現存する遺構の風情と、治水の歴史に興味を惹かれました。山に登れなくなったら、歴史探訪の旅に方向転換することにしようかな。
mizuki
mizukiさん
長い旅にお付き合いいただきありがとうございました。何より毎回素敵なコメントをいただいた事が大きな励みとなりました。
今回は体長を崩してしまい、満足のいく記録ができませんでしたがとりあえず全ての行程を終えてほっとしています。
mizukiさんの文章、大好きです。これからもレコ楽しみにしていますね。
okome
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