記録ID: 6204845
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
歩いて辿る洛中周回
2023年11月22日(水) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 07:53
- 距離
- 27.6km
- 登り
- 109m
- 下り
- 103m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年11月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
帰り:JR(京都線)京都駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
洛中を一周。 洛中洛外の境を辿るために豊臣秀吉の時代に築いた史跡 御土居跡を辿る。 時の流れによる街の変容で御土居跡が分かりにくくなっている。 独自解釈で御土居跡を辿ったところがある。 |
写真
本能寺
法華宗本門流の大本山で、応永二十二年(一四 一五)、日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享五年(一四三三)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文十四年(一五四五)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正十年(一五八二)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。 その後、
豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(一五八九)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和三年(一九二八)に再建された
ものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻 等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及び その側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画 家浦上玉堂父子の墓などがある。
法華宗本門流の大本山で、応永二十二年(一四 一五)、日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享五年(一四三三)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文十四年(一五四五)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正十年(一五八二)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。 その後、
豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(一五八九)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和三年(一九二八)に再建された
ものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻 等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及び その側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画 家浦上玉堂父子の墓などがある。
廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、正しくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(九三八)に慈恵大師良源じえだいしりょうげん(元三大師がんさんだいし)が船岡山南麓に開いた與願金剛院(よがんきんぞういん)に始まる。 寛元三年(一二四五)、法然上人に帰依した住心覚瑜上人(じゅうしんかくゆ)が出雲路に廬山寺を開き、この二カ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人 (一三三九〜一三六八)によって、廬山寺を與願金剛院に統合 し、寺名を「廬山天台講寺」とした。
四辻善成(よつつじよしなり)の『河海抄(かかいしょう)』に、紫式部邸の位置が「正親町以南、京極西頬、今東北院向 也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。 また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆されたという説があり、平安時代の 貴族邸を模した庭には紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。
四辻善成(よつつじよしなり)の『河海抄(かかいしょう)』に、紫式部邸の位置が「正親町以南、京極西頬、今東北院向 也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。 また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆されたという説があり、平安時代の 貴族邸を模した庭には紫式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。
史跡 御土居(ここの案内より)
御土居は、天正19年(1591)豊臣秀吉が「長い戦乱により荒廃していた京都を整備すべく都市計画を行ったとき、外敵の来 襲にそなえ、その防塁として築いた土塁 (土居)である。 その範囲と構造は延長は23キロメートルに及び、これによって京都が洛中と洛外に分けられた。 多数の人々を動員して築造した御土居ではあったが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々にこわされ、北辺を中心に部分的に残存するのみとなった。
ここ紫竹上長目町、同上堀川町に残る御土居は、御土居の北東隅にあたる重要な部分であり、昭和5年(1930) 7月8日、市内に残る他の 7か所とともに、京都の沿革を知るうえで、またわが国における都市 計画の歴史を知るうえで重要な遺跡として国の史跡に指定された。 なお、その後、北野天満宮境内の1か所が追加指定され、現在では9か所の御土居が国の史跡となっている。
御土居は、天正19年(1591)豊臣秀吉が「長い戦乱により荒廃していた京都を整備すべく都市計画を行ったとき、外敵の来 襲にそなえ、その防塁として築いた土塁 (土居)である。 その範囲と構造は延長は23キロメートルに及び、これによって京都が洛中と洛外に分けられた。 多数の人々を動員して築造した御土居ではあったが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々にこわされ、北辺を中心に部分的に残存するのみとなった。
ここ紫竹上長目町、同上堀川町に残る御土居は、御土居の北東隅にあたる重要な部分であり、昭和5年(1930) 7月8日、市内に残る他の 7か所とともに、京都の沿革を知るうえで、またわが国における都市 計画の歴史を知るうえで重要な遺跡として国の史跡に指定された。 なお、その後、北野天満宮境内の1か所が追加指定され、現在では9か所の御土居が国の史跡となっている。
史跡 お土居(ここの案内より)
天正19年(1591)豊臣秀吉が、長い戦乱のため荒れていた京都に都市計画を行なったとき、外敵の来襲に備え、この防塁として築いた土塁(土居)である。 その範囲と構造は当時の京都の周囲をめぐり、延長実に23キロメートルにおよび、これによいで洛中洛外が分!いられていた。
諸国道への出入りを設けていたが、鞍馬口・荒神口・丹波!!など) 名は、その名残りである。
また京都市立室町小学校校庭には、「是よ利洛中荷馬口付のもの乗辺から・・・」(もと清蔵(口町所在)と刻んだ石柱が移されている。
昭和5年(1930) 7月8日市内に残るお土居のうち8ヵ所が、京都の沿革を知るうえに、また、広くわが国における都市の発達をたどるうえにきわめて重要な遺跡として「史跡」に指定された。
昭和40年10月さらに1ヵ所(北野天満宮境内)が追加指定され、 現在9ヵ所が指定地となっている。
天正19年(1591)豊臣秀吉が、長い戦乱のため荒れていた京都に都市計画を行なったとき、外敵の来襲に備え、この防塁として築いた土塁(土居)である。 その範囲と構造は当時の京都の周囲をめぐり、延長実に23キロメートルにおよび、これによいで洛中洛外が分!いられていた。
諸国道への出入りを設けていたが、鞍馬口・荒神口・丹波!!など) 名は、その名残りである。
また京都市立室町小学校校庭には、「是よ利洛中荷馬口付のもの乗辺から・・・」(もと清蔵(口町所在)と刻んだ石柱が移されている。
昭和5年(1930) 7月8日市内に残るお土居のうち8ヵ所が、京都の沿革を知るうえに、また、広くわが国における都市の発達をたどるうえにきわめて重要な遺跡として「史跡」に指定された。
昭和40年10月さらに1ヵ所(北野天満宮境内)が追加指定され、 現在9ヵ所が指定地となっている。
御土居跡(ここの案内より)
平成28年に行われた発掘調査で、御土居の堀と土塁の基底部が確認されました。
御土居は、天正19(1591)年豊臣秀吉によって築造され、京都の町を北は鷹峯、 東は鴨川、南は東寺、西は紙屋川を結ぶ総延長22.5kmを土塁と堀で囲ったものです。 築造目的は幾つかの理由が考えられており、京都の範囲の明確化や外敵の侵入防止などさまざまな役割を果たしたとされます。
ここで確認した御土居は、紙屋川の段丘斜面に土を盛り、土塁を構築していたことが明らかになりました。 土塁の幅は中段に設けられた犬走(幅約3m)を含め、約20mと推定されます。 堀は深さ約6m、幅は周辺の地形から約16mと推定されま す。 堀底から土塁頂上までの高さは9mにもなると推定されます。
平成28年に行われた発掘調査で、御土居の堀と土塁の基底部が確認されました。
御土居は、天正19(1591)年豊臣秀吉によって築造され、京都の町を北は鷹峯、 東は鴨川、南は東寺、西は紙屋川を結ぶ総延長22.5kmを土塁と堀で囲ったものです。 築造目的は幾つかの理由が考えられており、京都の範囲の明確化や外敵の侵入防止などさまざまな役割を果たしたとされます。
ここで確認した御土居は、紙屋川の段丘斜面に土を盛り、土塁を構築していたことが明らかになりました。 土塁の幅は中段に設けられた犬走(幅約3m)を含め、約20mと推定されます。 堀は深さ約6m、幅は周辺の地形から約16mと推定されま す。 堀底から土塁頂上までの高さは9mにもなると推定されます。
史跡 御土居(ここの案内より)
御土居は、天下統一を成し遂げ豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲 に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守 る堤防として、天正一九年(一五九一)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。
台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は二二.五キロメートルに及び、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、 南は九条あたりに沿って築かれました。 土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。
御土居は、京都の沿革を知るうえに、また当 広く我国における都市の発達をたどる重要な遺跡として現在九箇所が国の史跡に指定されています。
御土居は、天下統一を成し遂げ豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲 に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守 る堤防として、天正一九年(一五九一)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。
台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は二二.五キロメートルに及び、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、 南は九条あたりに沿って築かれました。 土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。
御土居は、京都の沿革を知るうえに、また当 広く我国における都市の発達をたどる重要な遺跡として現在九箇所が国の史跡に指定されています。
羅生門跡(らじょうもん)
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。 弘仁七年(八一六)に大風により倒壊し、 その後に再建されたが、天元三年(九八〇)の暴風雨で再び倒壊した後は再建される ことがなかった。 一一世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が『小右記(しょうゆうき)』にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。
付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像(国宝)や三彩鬼瓦(さんすいおにがわら)(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。 弘仁七年(八一六)に大風により倒壊し、 その後に再建されたが、天元三年(九八〇)の暴風雨で再び倒壊した後は再建される ことがなかった。 一一世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が『小右記(しょうゆうき)』にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。
付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像(国宝)や三彩鬼瓦(さんすいおにがわら)(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。
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