常陸国[前編]★月居山と地獄谷(生瀬乱)★雪岩に苦闘し奥久慈男体山は断念
- GPS
- 11:05
- 距離
- 20.8km
- 登り
- 1,011m
- 下り
- 1,007m
コースタイム
- 山行
- 4:14
- 休憩
- 1:08
- 合計
- 5:22
- 山行
- 4:06
- 休憩
- 1:22
- 合計
- 5:28
天候 | 2月23日 小雨のち曇り 2月24日 快晴 |
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過去天気図(気象庁) | 2024年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
2月23日(金・祝) S 袋田駅(新橋6:40-7:33取手<ときわ路パス購入>7:42-9:01水戸9:23-10:32袋田) 計画 袋田の滝→月居山→鍋転山→(月居峠経由)→地獄沢 結果 袋田の滝→月居山→(月居古道)→地獄沢 泊)月居温泉滝見の湯 白木荘 2月24日(土) 計画 水根→奥久慈男体山→大円地→西金駅 結果 水根→鍋転山→月居山→袋田駅 G 袋田駅(袋田13:58-15:09水戸(水戸城址散策)16:54-17:46高萩 泊)高萩のビジネスホテル ------------以下[後編]--------------------- 2月25日(日) S 小木津駅(高萩-小木津) 計画 日立駅からバスで御岩神社→御岩山→神峯山→鞍掛山→神峯神社→日立駅 結果 小木津山→神峯山→不動滝BS G 不動滝BS12:59-日立駅中央口13:26 ★ときわ路パス(大人の休日倶楽部割引 1日1670円×3)利用 フリーエリア内(取手以北)のみで販売 |
写真
装備
個人装備 |
長袖シャツ
長袖インナー
ハードシェル
タイツ
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
ゲイター
ネックウォーマー
毛帽子
靴
ザック
チェーンスパイク
昼ご飯
行動食
飲料
水筒(保温性)
地図(地形図)
コンパス
笛
ヘッドランプ
GPS
筆記用具
ガイド地図(ブック)
ファーストエイドキット
常備薬
保険証
携帯
時計
タオル
カメラ[アウター手袋
アイゼンなし]
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感想
何も好き好んで雪の岩山を登るつもりはなかった。
そもそも茨城のジャンダルムといわれる生瀬富士だとか、奥久慈男体山のクサリ場が連続するという健脚コースなど夏でも好んでは行かない。
それなのに。。。
勘違いだったのか、魔につかれたのか。
(計画経緯)
奥久慈男体山〜月居山〜袋田の滝の縦走と、日立アルプスは、漠然とは計画していた。ただし、生瀬富士と奥久慈男体山健脚コースは除外し、日立アルプスは半分ずつだ。にしても長いコースだし、袋田はどんなに家を早く出ても11時近くになってしまうので日帰りは厳しそうだった。
JRの「ときわ路パス」を知ったことにより、宿泊してこの2つをセットにすることを思いついた。大人の休日倶楽部割引もあり東京から片道でも十分安くつく。袋田から日立までの片道でもだ。
だがこの切符は土日祝限定なので3連休を狙うことにした。
そんな折、生瀬乱(なませのらん)のことを知った。正史での記録はないが、地元の伝承として語られていて、江戸初期、小生瀬の村が丸ごと水戸藩により皆殺しにされたという事件だ。
事件の200年後の文化年間(1804〜1818)に水戸藩の学者が明るみにして、以来、事件の発生年月や性格も、百姓一揆、逃散、草分け伝説など諸説紛々のようだ。地元の大子町が、大勢の農民が逃げ込んで皆殺しにされたといわれる「地獄沢」の位置(緯度経度)を公開している。
この地獄沢は、袋田駅から行くと袋田の滝・月居山を越えた反対側にある。埋もれた歴史を発掘した歴史小説を書き続けている飯嶋和一さんは、『神無き月十番目の夜』でこの事件をテーマにし、江戸幕府(水戸藩)に組み入れられようとしていた、武士でもあった(月居騎馬衆!)自立した農民の反抗と捉え、戦国〜江戸時代初期の袋田や月居山や小生瀬の武士=農民の姿を想像力豊かに描いている。実在する集落名や地形が書き込まれ、山村なのか農村なのか村の生活が目に浮かぶようだった。ほぼ100%フィクションとわかっていながら、訪ねに行くしかないと思った。そもそも数百人はいたとされる村民が皆殺しにされた地獄沢とは、どんな沢なのだろうか。
ちょうど、この小生瀬村(のち大生瀬村や高柴村と合併し生瀬村。のち袋田村などと合併し現在は大子町)に「月居温泉滝見の湯 白木荘」という温泉宿があることを知った。地区民が建て運営しているという。ここなら地獄沢にも袋田の滝にも近い。もっとも袋田の滝から月居温泉に歩いていくには、月居山を越えていかなければ行けない(国道のトンネルを行くと大回りとなり1時間半かかる)。しかしもともと月居山に登るつもりだから関係ない。初日は袋田の滝→月居山→地獄沢→月居温泉。2日目は、水根から尾根に取り付き奥久慈男体山に行けばよい。長い縦走を2回に分ける名案だと思った。しかし、小生瀬村側の登山道は地形図にはないのに気づくことになる。地獄沢への道も国道から先は地図にはない。
記録は後編に回すが、もう一つ、3日目の日立アルプスもあれこれ調べて、面白いテーマが見つかった。最初は小木津駅から神峰山に向かうとして、花の百名山の高鈴山は今の季節ではなく次回にするとしても、どこで引き返すかが悩みだった。調べていくうちに麓をバスが巡っていて、いろんなアプローチが可能なことがわかった。そして、常陸国風土記の「賀毗禮(かびれ)の高峰」が御岩山を指すとされ、麓の御岩神社から参道で行ける(バス停もある)ことを知った。さらに、少し離れた神峰山を指すという説もあるらしい。こちらは神峰神社の奥の院がある。
賀毗禮の高峰の両説を訪ねるのが面白そうだった。御岩神社→御岩山→神峰山(神峰神社奥宮)→鞍掛山→神峰神社里宮というコースが魅力的だった。賀毘礼の峰に登った立速日男命(常陸国風土記だけに登場する)を祀る薩都(さと)神社中宮が御岩神社にあり、かびれ神宮も御岩山山頂にあるので、古来から御岩山説が有力なのかなと思い、確かめてみたかった。
このようにして満足すべき山旅計画が出来上がった。ところが、雪のため3日間ともコース変更を余儀なくされてしまったのだ。この地域の山は雪は覚悟すべきだが、例年根雪にはなっておらず、降雪量も少ないからまあ大丈夫だろう、と楽観していたのがいけなかった。
(雪の岩場との格闘)
前日から当日未明にかけ全国的に雪が降っており、まずいかもしれないとは思っていた。2週間前の丹沢・仏果連山の想定外の積雪に懲りて、チェースパイクだけは持ってきていたが、アイゼンなど本格的な装備はしていなかった。事実、常磐線や水郡線の沿線で一部積雪していた。しかしそれは散発的で、地域によるようだった。袋田では積雪はなし。みぞれ交じりの雨の中、まだ楽観していた。
多くの観光客に交じって、初めて観る袋田の滝は予想以上に豪快だった。ただ感心するばかりで、これだけの岩壁があるということは、どういう山域であるか推して知るべきだった。宿泊地の月居温泉に行くために、当然のごとく月居山を登った。滝からの自然研究路は鉄階段と木階段が延々と続くだけだ。高度を上げるにつれて、積雪が見られるようになった。10cmはあっただろうか。しかし、階段が埋まることなく、観音堂まですいすい登った。雪の観音堂は美しかった。ここから登山道になる。鞍部まで下りるのは簡単だった。
鞍部から月居山への登りで、岩場が出てきた。クサリ、ロープの連続だ。ここで手袋が防雪用でないことに気が付く始末だった。月居山から第一展望台(鍋転山)までは行き、少し戻って、月居山峠からのエスケープルートで月居温泉へ向かう計画だったが、あっさり諦めた。手が凍えていたうえ、鞍部から月居温泉へ向かう道が道標がしっかりしていて歩きやすそうだったからだ。月居山峠からのエスケープルートは傾斜がありそうで怪しく感じていたのだ。月居山から鞍部へ戻り(ここのクサリ、ロープは高度感は全くなく転んでも危険もない)、鞍部からの道(月居古道)を行ったら、幸い林道みたいな感じで楽々降りられた。後で考えるとこの幸運が、気の緩みを生んだと思う。この山域の岩場をこの日は、1回も体験しなかったのだ。
地獄沢を探すほうがかえって厄介だった。竹藪に阻まれ辿りつけず、雪のせいか地面は沼のようで泥だらけになった。両側に森の山が迫った谷だった。森にはたどり着けなかったが、深そうだった。山地にはよくある地形だが、地獄沢には怨霊が漂っているような感じがした。
小生瀬村は紛れもない山村だった。田んぼはあるが広くはとれない。小さな山々の合間に平地があり、そこに集落が散在していた。これらの集落の分布は戦国時代から変わっていないのかもしれない。今は、リンゴが多く栽培されていた。
月居温泉の宿は、さすがに地元の方が運営するだけあって、親しみに溢れていた。今日はどこに行ったのか、明日はどこに行くのか盛んに聞いてきた。地獄沢のことは口に出さなかったが、正直に話した。この雪だと、奥久慈男体山は絶対にやめろと強く言われた。岩に雪が積もって凍ってまた降っているから大変だと。受け止めつつも、温泉で温まりぐっすり眠って、忘れた。
宿の出掛にも再び言われた。「やっぱり登るのか」。危ないと思ったらすぐ引き返すからと、言い訳した。冷えるからとカイロをくれた。
水根から月居山-奥久慈男体山縦走路(尾根道)までの登山道は、らくルートにあったので線を引いただけだった。尾根を登っていく道だった。徐々に雪が出てきて、半ばであたりが真っ白となった。樹に張り付いた雪が、日光に映えていて美しかった。快晴無風の絶好の天気だった。いい時に来たと喜んだ。
しかし、この登山道は岩場の連続だったのだ。やや長い急な岩場の急登が4か所ほどあったか。問題は岩に雪が張り付いていたことだ。足場がわからないのである。一歩一歩確かめながら試行錯誤で登るしかなかった。チェーンスパイクを装着したが、歯の深さが足りない感じだった。歯の大きいアイゼンにすべきだった。また、岩場は大きく摑まる樹がなかった。ピッケルがあればよかった。
後ろを振り返ると下りは絶対に無理だと思った。もう引き返すことができなくなった。
最後の方の岩場は、何故どうやって登ることができたのかわからないほどだった。それは巨大な岩だった。乗り越えるのは無理。右に回ったが、その先の絶壁の端が狭く危険だった。左は少し下らなけければならないが、その先が見えない。仕方なく恐る恐る下に進んだが、やはり絶壁なのであわてて体を反転させて登り戻った。前を向いたら不思議なことに岩の先に道が開けていた。何が起きたのか分からなかったが、これで進むことができた。(恐らく戻るときにそのままでなく別のところに戻ったのだろう。)
岩場以外は、雪に埋もれていても快適な尾根歩きだった。少しトラバースはあったが、基本は尾根(支脈)を忠実に辿ればよかった。チェーンスパイクは巨大なダルマになったが、振り落とせばよいだけだ。多少の岩なら雪がなくともチェーンスパイクがあったほうが良かった。
奥久慈男体山に向かう月居山縦走路(主脈の尾根)に到達したのは、予定時間より1時間近く遅れていた。体力の余裕はあったが、精神力(メンタルポイント)を使い果たしていた。宿の方の警告を受け止め、エスケープ道は想定していた。月居山へ尾根を辿って戻るのだ。前日に第一展望台(鍋転山)を残していたので行ってみたかったこと、地獄沢を山の上から眺めたかったという積極的な理由もあった。いずれにしても、奥久慈男体山には行くなという宿の方の忠告は守ったわけだ。彼女には、袋田駅で無事下山の電話を入れた。
月居山への縦走路は、アップダウンはあるものの、水根からの支尾根に比べると岩場は大したことがなかった。月居山への南側からの登りの岩場は長く急だったが、すでに雪はなくなっていた。だが、岩場が多い山域であることは肝に銘じよう。月居山の鞍部から袋田まではずっと林道並みだった。エスケープだからこれでいいのだが、拍子抜けした。もしかしたら奥久慈男体山に向かっても同様だったかもしれない。
水根からの支尾根の岩場が核心だった。ビビッたけど振り返ると楽しかった。人によればもっともっとと技術力を上げもっと困難な岩場に挑むのだろう。その気持ちがわかる気がした。しかし、私はその方向にはいかない。ただ、あの何故か越えられた岩場がどうなっていたのか、ぜひ「夏」に確認に行きたい。
(水戸藩と彰考館と生瀬乱)
エスケープがスムース過ぎて時間が余ったので、観光客で賑やかな水戸の散策をした。初めての水戸。まずは駅前の水戸城だろう。驚いたことに、一の丸、二の丸、三の丸とも、学校になっていた。水戸第一高校、第三高校、第二中学、茨城大付属小学校、三の丸小学校。小学生から高校生までずっと水戸城址で過ごす人もいるのだろう。
これに対応するかのように、城址を巡る散策路の名前は「水戸学の道」であり、日本遺産の「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」の認定を受けていることをアピールしていた。旧弘道館と旧水戸彰考館跡があるからだ。弘道館とは藩校つまり学校、水戸彰考館とはいわば歴史研究所だ。
水戸城址=水戸藩で、今、誇るべきことは「教育」だと言わんばかりだ。その基本にあるのが、水戸光圀が始めた「大日本史」編纂事業だろう。そのために設立された彰考館は全国から130名の研究員が集まり、日本最大の規模を誇る、計402巻と膨大な大日本史を完成させた(1902年)。これだけの研究者がいるので、郷土史研究も盛んだったようだ。
水戸散策をしながら、頭から離れなかったのが地獄沢(生瀬乱)のことだ。こういう水戸藩で藩が関わった事件のこと、水戸光圀より前の時代ではあるが、水戸藩(彰考館)の歴史家たちは知っていたのではないか。あえて書かず、しかもその痕跡を徹底的に消した。だから史料が全く残っていない。
飯嶋和一『神無き月十番目の夜』では、戦国時代に佐竹氏陣営の騎士として、陸奥からの伊達氏侵入への防御に活躍していた小生瀬の農民(月居騎馬衆)は、いわば自治を獲得していて豊かな山村だった。それが江戸幕府となり、佐竹氏から水戸藩となって、年貢だけのための農民となっていくことへの反抗が生瀬乱だったと描いた。水戸藩は藩の農民たちへの見せしめのため処罰した。
しかし、それだけだと村丸ごとの皆殺しの理由には足りない。なぜ女・子供含めてだったのか。飯嶋和一さんの説は、地獄沢と称されている森は聖なる地だったということだ。三方を岩壁で囲まれた(つまり入り口は一つの)深い森は、普段は入ることを禁じられていた。誤って入ると出てこられない。しかし、二度と戻れないがそこには別の世界がある、とされていた。だから、藩軍(指導者は芦沢信重という設定)の攻撃を受け、全員が地獄沢と呼ばれるようになった森に逃げ込んだ。
今回歩いてみてわかったのは、この地帯は岩が多いことだ。地質的には、海底火山であった奥久慈男体山が噴出したデイサイト・流紋岩が隆起したという。低山でも険しいわけだ。岩が多く起伏が多い。地獄沢と呼ばれるあたりも同様なのだろう。そういった地形の森がいつしか聖なる地となった。
見た限り、地獄沢の森は昔のままで残されているようだった。聖なる地説はあくまでフィクションだが、そう思わせるものがあった。ここが開発され発掘されれば何か出てくるかもしれないが、ずっとそっとしておいてほしいと思うのだった。
(後編へ)
3日目は、日立アルプスに向かった。計画では、御岩神社から御岩山に参道で登るつもりだったが、「雪のため入山禁止(アイゼンでも)」という告知がホームページに出た。さて、どうするか。以下[後編]へ続きます。
(参考文献)
地獄沢(生瀬乱) 大子町教育委員会事務局
https://www.daigo-bunkaisan.jp/page/page000050.html
飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(1997河出書房新社、2006小学館文庫)
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