北口本宮浅間神社~吉田口一合目【富士信仰登山の入口と春の花々】


- GPS
- 03:08
- 距離
- 8.0km
- 登り
- 585m
- 下り
- 0m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年06月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
バス
帰りは馬返しから富士山駅行きの馬返しバスで。午前便と午後便の2本のみ運転なので、時間には注意しましょう。馬返し周辺は携帯電話の電波の届きにくい場所が多いので、タクシーを呼ぶ際も注意。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
ほぼ全ての区間が、スバルライン五合目の開通まで登山バスが運行していたかつてのバス道を利用したハイキングコースです。緩やかに登っていく優しいルートですが、徐々に傾斜が増していくのでペース配分に注意。バスに乗り遅れそうな時は舗装林道の歩くのもいいですが、時折車が通るのでご注意を。森の中の遊歩道が続き、途中に眺めのいい箇所はありません。 【北口本宮浅間神社~馬返し】 国道沿いの表参道から北口本宮浅間神社に入ると、本殿の左奥に登山道入り口を示す鳥居があります。 鳥居をくぐってそのまま登り、いったん歩道のある車道に出ます。 「大塚丘(おつかやま)」を過ぎてすぐ、歩道のある車道から右に曲がり、すぐ左側からバス道をつかった吉田口遊歩道が始まります。 舗装はされていないゴツゴツした路面で、一度は廃道となっていたために道幅は狭いですが、バスが行き交っていた名残りか、よく見ると大きな木は一定の横幅を保って生えているのが分ります。 諏訪の森を抜け、高速道路の下をくぐると再び遊歩道。高速道路の手前には車道の横断があります。交通量は多くないですが、勢いよく車が通過していく場所なので左右を様子をよく見て渡りましょう。高速道路をくぐった先にも舗装道路の横断があります。 中の茶屋まではあまり上り坂であることを意識することのない、本当に緩やかな坂道です。 中の茶屋をぬけて、フジザクラの群生地からはしばらく、車も通行できる幅の広い未舗装林道になります。富士林道を横断すると再び細い道に。大石茶屋跡では遊歩道を一度左に外れて、並走する舗装林道の方に出ると、レンゲツツジの群生地があります。 そこからもうひと登りで、馬返しの駐車場に出ます。駐車場を抜けたところにバス停があり、さらに階段を登ると馬返しの茶屋跡が広がっています。 トイレ: 北口本宮浅間神社、中の茶屋、大石茶屋、馬返し(神社以外は4月~11月の登山シーズン中のみ設置の仮設トイレ) |
その他周辺情報 | 【中ノ茶屋】 営業期間:4月中旬~10月末(2024年は~10/31) 営業時間:9:00~16:00(季節変動あり、木曜定休) 名前の由来は、北口本宮富士浅間神社から馬返しまでのちょうど中間地点にあるため。300年以上の歴史を持つお茶屋さん。 【馬返し 大文司屋】 営業期間:4月下旬~11月3日(2024年は~11/4) 営業時間:8:30~16:00(不定休) 富士山の水で淹れたコーヒーがおすすめ。テラス状になった前庭のチェアで休んでいると、すぐそばに野鳥がやってくるのんびりした空間。寒い時期は暖炉に火が焚かれあたたまります。 |
写真
江戸時代の富士講ブームの立役者、村上光清によるグループ村上講のマーク。
村上光清は江戸時代に北口本宮浅間神社の境内をはじめ、登山道周辺を再整備して登山者を受け入れる地盤を作った人。よく探すと、浅間神社の至るところに卍のマークがあります。
この吐水口の龍は雨乞いの神事で使われることがあったそう。日照りが続くとこの龍を外し、縄でぐるぐる巻きに。近くの鐘山の滝の滝壺に放り込んで雨を待ったとか。意外に大変な目に遭っている青龍です。
下向きに、うつむきがちに咲くので「乙女桜」の名で呼ばれることも。
感想
【北口本宮富士浅間神社】
武田信玄をはじめ、多くの武将の信仰を集めた山梨最大の浅間神社。本殿の奥には富士山の登山道入り口があり、麓の街から富士山に向けて登り始めることができる唯一の登山道になっています。
江戸末期までは仁王門や鐘つき堂があったようですが、廃仏毀釈の運動により破壊。仁王門は礎石が残り、当時の姿をわずかに伝えています。
【富士講】
江戸時代に大流行した、富士山に登ることで御利益を得ようとする信仰。江戸をはじめ東日本を中心に、町内で「講」と呼ばれる互助組織を作りお金を集め、毎年代表者が富士山まで旅をしていました。富士講の指導者のひとり、食行身禄の教えでは、富士山を崇め、正直に勤勉に働けば、現世で幸福になれる、身分や性別の違いに囚われず助け合うことが大切であると説き、多くの人々の信仰を集めました。
麓の富士吉田では「御師」と呼ばれる人々が禊や祈祷などの宗教的行為を行っていました。そのほかにも宿泊場所や食事の提供、ガイドや強力(シェルパ)の手配、シーズンオフには江戸に出向いて来シーズンの富士登山の奨励や新規顧客の獲得といった営業活動をしていました。
「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど多くの信者がいた富士講は、「平等」の概念があるため幕府からたびたび禁止令が出され弾圧の対象に。それでも信仰は続いていましたが、明治初期の廃仏毀釈運動により仏教関連施設が破壊されるなどして徐々に衰退、関東大震災によって江戸の町が崩壊して講の根底である町の繋がりが消滅、スバルラインの開業によってレジャー登山が主流になったこともあり、現在ではわずかな講が残るのみとなっています。
【大塚丘(おつかやま)】
浅間神社裏手にある人工の丘。ヤマトタケルノミコトが東征の際、この丘の上から見る富士の姿が素晴らしいと語った、と北口本宮富士浅間神社の社記は伝えています。もともとこの丘のそばにあった浅間社が移転拡張したのが、浅間神社の始まりとされています。
【諏訪の森】
北口本宮富士浅間神社の裏手に広がる、赤松の森。江戸時代に、諏訪社や浅間神社を雪代(ゆきしろ)と呼ばれる岩屑なだれ(スラッシュなだれ。がれきや土砂を含む大規模な雪崩現象)から守るために植えられた赤松の森です。
もともと一合目より低い場所は火山堆積物の草原(すすき野原)が広がっており、たびたび襲う雪代によって樹木は育ちにくかったよう。そのままでは町や畑を守れないため、砂防の役割を期待して植えられたのでしょう。
実は富士吉田の街も、かつては御殿場からの街道に沿って富士山の裾野を横切る形で形成されていたそうですが、雪代被害から街を守るために、堀のようになった川と川の間に収まる裾野の尾根に沿うように移転しています。
富士山の崩壊との麓で暮らす人々の長いたたかいが、赤松の木々の大きさから感じられる場所です。
【泉瑞】
せんずい。いまは枯れてしまいましたが、かつては富士山の湧水による泉のあった場所で、富士講の人々が身を清めた場所「内八海」のひとつです。いまでも北口本宮富士浅間神社の手水場ではここから引いた湧き水が使われています。
【吉田胎内】
明治時代に発見、富士講の巡礼の場として整備された胎内樹形。溶岩流によって燃え尽きた樹木の形に溶岩が冷えて固まり、円筒状になった空洞のこと。毎年4/29に行われる胎内祭でのみ立ち入ることができます。
【中の茶屋(フジザクラ群生地)】
北口浅間神社から馬返しの禊場までに至る道中のちょうど中間に位置するために名付けられた茶屋。
4月の中頃には付近でフジザクラの花が咲きそろいます。正式にはマメザクラと呼ばれるこの桜は、花が枝から下向きに伸びてうつむきがちに咲くため、オトメザクラと呼ばれることもあります。富士山周辺の野山でよく見かける桜です。
【大石茶屋跡(レンゲツツジ群生地)】
ややオレンジがかったツツジで、例年5月の下旬ごろに見ごろを迎えます。茶屋跡の周辺には富士講の実績を讃える石碑が並んでいます。
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