記録ID: 7868602
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
京都検定的歩き方 三十三間堂 春桃会〜京都ミュージアムロードスタンプラリー
2025年03月03日(月) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 03:22
- 距離
- 9.3km
- 登り
- 45m
- 下り
- 45m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年03月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
三十三間堂(蓮華王院)
(東山区三十三間堂廻り町)
◆本尊千手観音
正式には蓮華王院。
通称の三十三間堂は本堂の母屋正面の柱間の数が三十三あることに由来する。
洛陽三十三所観音霊場第十七番札所。
長寛二年(一一六四)に後自河上皇の勅願によって創建。
豊臣秀吉が方広寺を創建した天正十四年(一五八六)には、その千手堂となったが、秀吉没後には方広寺とともに天台宗の妙法院の管理下に置かれた。
楊枝のお加持、三十三間堂通し矢は一月十五日に近い日曜に行う。
現在の本堂(国宝)は、文永三年(一二六六)の再建で、京都における鎌倉時代和様の代表的遺構。
湛慶の手になる千手観音坐像(国宝)を中央に、南北約百二十メートルに及ぶ伽藍内に、等身大の木造千手観音立像(国宝)が立ち並ぶ光景は圧巻。
二十八部衆立像、風神・雷神像(すべて国宝)が千手観音に従っている。
他に桃山時代の建築で、南大門、築地塀(太閤塀)(ともに重要文化財)がある。
(京都検定テキスト[一部修正])
*新しい京都検定のテキストが発売されました
https://www.kyotokentei.ne.jp/news/122857.html
(東山区三十三間堂廻り町)
◆本尊千手観音
正式には蓮華王院。
通称の三十三間堂は本堂の母屋正面の柱間の数が三十三あることに由来する。
洛陽三十三所観音霊場第十七番札所。
長寛二年(一一六四)に後自河上皇の勅願によって創建。
豊臣秀吉が方広寺を創建した天正十四年(一五八六)には、その千手堂となったが、秀吉没後には方広寺とともに天台宗の妙法院の管理下に置かれた。
楊枝のお加持、三十三間堂通し矢は一月十五日に近い日曜に行う。
現在の本堂(国宝)は、文永三年(一二六六)の再建で、京都における鎌倉時代和様の代表的遺構。
湛慶の手になる千手観音坐像(国宝)を中央に、南北約百二十メートルに及ぶ伽藍内に、等身大の木造千手観音立像(国宝)が立ち並ぶ光景は圧巻。
二十八部衆立像、風神・雷神像(すべて国宝)が千手観音に従っている。
他に桃山時代の建築で、南大門、築地塀(太閤塀)(ともに重要文化財)がある。
(京都検定テキスト[一部修正])
*新しい京都検定のテキストが発売されました
https://www.kyotokentei.ne.jp/news/122857.html
忠盛燈籠
東山区八坂神社
白河法皇が平忠盛を伴って、祇園女御に会うために祇園社 (八坂神社)を通りかかった時、北の森に明かりがついて怪しげな姿が浮かび上がった。
法皇は化け物かと思い退治を命じたが、忠盛はその正体を見極めるため、沈着冷静に対処した。
怪しげな姿は祇園の社僧が蓑を着けて燈籠に火を入れていた姿であった。
そのことから、この燈籠を忠盛燈籠と呼ぶようになった。
(京都検定テキスト)
東山区八坂神社
白河法皇が平忠盛を伴って、祇園女御に会うために祇園社 (八坂神社)を通りかかった時、北の森に明かりがついて怪しげな姿が浮かび上がった。
法皇は化け物かと思い退治を命じたが、忠盛はその正体を見極めるため、沈着冷静に対処した。
怪しげな姿は祇園の社僧が蓑を着けて燈籠に火を入れていた姿であった。
そのことから、この燈籠を忠盛燈籠と呼ぶようになった。
(京都検定テキスト)
祇園小唄
舞妓の舞でお馴染みの流行歌。
昭和5年 (1930) 1月に日本ビクターからレコードが発売されて大ヒットした。作詞は、『祇園夜話』『青春時代』 などの作品で知られた当時のベストセラー 作家長田幹彦。
作曲は佐々紅華。
歌ったのは藤本二三吉。 「月はおぼろに東山・・・・・・」で始まる歌詞の碑が、 洋画家の和田三造のデザインで円山公園に建てられている。
(京都検定テキスト)
舞妓の舞でお馴染みの流行歌。
昭和5年 (1930) 1月に日本ビクターからレコードが発売されて大ヒットした。作詞は、『祇園夜話』『青春時代』 などの作品で知られた当時のベストセラー 作家長田幹彦。
作曲は佐々紅華。
歌ったのは藤本二三吉。 「月はおぼろに東山・・・・・・」で始まる歌詞の碑が、 洋画家の和田三造のデザインで円山公園に建てられている。
(京都検定テキスト)
知恩院の七不思議のひとつ
〇瓜生石
知恩院ができる前からあるという石で、八坂神社の午頭天皇が降臨して一夜のうちに瓜が生えて実ったとか、二条城へ続く抜け道の出入口であるとかいわれる。
(京都検定テキスト)
〇瓜生石
知恩院ができる前からあるという石で、八坂神社の午頭天皇が降臨して一夜のうちに瓜が生えて実ったとか、二条城へ続く抜け道の出入口であるとかいわれる。
(京都検定テキスト)
京焼
江戸時代初期、御室に窯を築いた野々村仁清は色絵陶器によって京焼の窯に新風を吹き込み、名を高めた。
仁清を継承する尾形乾山は年配になって鳴滝窯を築き制作し始めた。
本阿弥光悦とは親戚関係であり、琳派の継承者でもあった。
その後、奥田頴川が粟田口で呉須赤絵や染付の磁器を作り始め、青木木米、仁阿弥道八、永樂保全などが輩出し、五条坂を中心とした清水焼の名前で知られる焼物へと展開していったのである。
頴川以降の磁器が清水焼として広まると、従来の色絵陶器は「古清水」と呼ばれるようになった。
(京都検定テキスト)
江戸時代初期、御室に窯を築いた野々村仁清は色絵陶器によって京焼の窯に新風を吹き込み、名を高めた。
仁清を継承する尾形乾山は年配になって鳴滝窯を築き制作し始めた。
本阿弥光悦とは親戚関係であり、琳派の継承者でもあった。
その後、奥田頴川が粟田口で呉須赤絵や染付の磁器を作り始め、青木木米、仁阿弥道八、永樂保全などが輩出し、五条坂を中心とした清水焼の名前で知られる焼物へと展開していったのである。
頴川以降の磁器が清水焼として広まると、従来の色絵陶器は「古清水」と呼ばれるようになった。
(京都検定テキスト)
京への出入口
かつて京への幹線道路の出入口は数ヵ所設けられていたが、それらを俗に「京の七口」といった。
東海道、東山道、北陸道の三道に通じる粟田口 (三条口、三条橋口、東三条口などともいう)は京の七口の一つである。
粟田口は三条大橋に置かれたが、時代によっては三条大橋よりも東側の蹴上付近に置かれたこともあった。
三条大橋は東海道五十三次の京都からの起点で、江戸からは終点にあたる。
鴨川に架かる堅固な橋で天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。
その後災害で流失するたびに幕府の管轄する公儀橋として修復が重ねられてきた。
欄干の擬宝珠(十二個)が美しい現在の三条大橋は、昭和二十五年(一九五〇) の改修による。
橋の西詰には、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公である弥次・喜 多像がある。
また東詰には江戸時代中期に天皇を主君とする尊王論を唱え、全国を行脚した高山彦九郎が御所に向かって拝礼する像がある。
(京都検定テキスト)
かつて京への幹線道路の出入口は数ヵ所設けられていたが、それらを俗に「京の七口」といった。
東海道、東山道、北陸道の三道に通じる粟田口 (三条口、三条橋口、東三条口などともいう)は京の七口の一つである。
粟田口は三条大橋に置かれたが、時代によっては三条大橋よりも東側の蹴上付近に置かれたこともあった。
三条大橋は東海道五十三次の京都からの起点で、江戸からは終点にあたる。
鴨川に架かる堅固な橋で天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。
その後災害で流失するたびに幕府の管轄する公儀橋として修復が重ねられてきた。
欄干の擬宝珠(十二個)が美しい現在の三条大橋は、昭和二十五年(一九五〇) の改修による。
橋の西詰には、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公である弥次・喜 多像がある。
また東詰には江戸時代中期に天皇を主君とする尊王論を唱え、全国を行脚した高山彦九郎が御所に向かって拝礼する像がある。
(京都検定テキスト)
六勝寺跡
(左京区岡崎)
白河天皇は、鴨川東岸の白河に法勝寺を建立し、堀河天皇に譲位後、院御所である白河殿を造営して、院政を行った。現在の岡崎の一帯には、白河北殿や白河南殿、また六勝寺など、その跡地であることを示す石碑が多くある。六勝寺は、院政期に創建された「勝」の字の付いた六つの寺院を総称して、そのように呼ばれた。
すなわち
法勝寺(白河天皇御願)、
尊勝寺(堀河天皇御願)、
最勝寺(鳥羽天皇御願)、
円勝寺(鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子御願)、
成勝寺(崇徳天皇御願)、
延勝寺(近衛天皇御願)
の六ヵ寺である。法勝寺には八角九重塔があった。すべて失われて何も残っていないが、地名にその名を見ることができる。
法勝寺はのちに西教寺(滋賀県大津市)に合併されたために、法勝寺から伝来したとされる薬師如来坐像(重要文化財)が西教寺にある。
また、西方寺(左京区東大路通二条下ル北門前町)の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)も法勝寺にあったものと伝わる。
京都大学熊野寮の構内に白河北殿跡の石碑があるが、ここは保元の乱の時、崇徳上皇が入っていたために後白河天皇方によって攻められ焼失した史跡でもある
(京都検定テキスト)
(左京区岡崎)
白河天皇は、鴨川東岸の白河に法勝寺を建立し、堀河天皇に譲位後、院御所である白河殿を造営して、院政を行った。現在の岡崎の一帯には、白河北殿や白河南殿、また六勝寺など、その跡地であることを示す石碑が多くある。六勝寺は、院政期に創建された「勝」の字の付いた六つの寺院を総称して、そのように呼ばれた。
すなわち
法勝寺(白河天皇御願)、
尊勝寺(堀河天皇御願)、
最勝寺(鳥羽天皇御願)、
円勝寺(鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子御願)、
成勝寺(崇徳天皇御願)、
延勝寺(近衛天皇御願)
の六ヵ寺である。法勝寺には八角九重塔があった。すべて失われて何も残っていないが、地名にその名を見ることができる。
法勝寺はのちに西教寺(滋賀県大津市)に合併されたために、法勝寺から伝来したとされる薬師如来坐像(重要文化財)が西教寺にある。
また、西方寺(左京区東大路通二条下ル北門前町)の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)も法勝寺にあったものと伝わる。
京都大学熊野寮の構内に白河北殿跡の石碑があるが、ここは保元の乱の時、崇徳上皇が入っていたために後白河天皇方によって攻められ焼失した史跡でもある
(京都検定テキスト)
京人形
古来、人形は、天児、這子など、子供の身代わりに悪いことを引き受けるものとして用いられた。
京都には、嵯峨人形、賀茂人形、御所人形、素朴な土焼きの伏見人形などがある。
現在は三月三日と五月五日の節句人形が中心となっている。
京雛は、頭師、髪付け師、手足師、小道具師、胴着付け師などの分業で、熟練の技術が代々伝えられてきた。
京都は周囲に仏具関係、繊維関係、漆芸関係などの工芸が発達しており、人形作りの環境として適していた。
代々皇女が入寺した上京区の大聖寺、宝鏡寺、三時知恩寺(新町通今出川上ル)、左京区の霊鑑寺などの尼門跡寺院には、江戸時代の優れた人形が今に伝わっている。
拝領人形ともいわれ、大名への贈答品となった。
(京都検定テキスト)
古来、人形は、天児、這子など、子供の身代わりに悪いことを引き受けるものとして用いられた。
京都には、嵯峨人形、賀茂人形、御所人形、素朴な土焼きの伏見人形などがある。
現在は三月三日と五月五日の節句人形が中心となっている。
京雛は、頭師、髪付け師、手足師、小道具師、胴着付け師などの分業で、熟練の技術が代々伝えられてきた。
京都は周囲に仏具関係、繊維関係、漆芸関係などの工芸が発達しており、人形作りの環境として適していた。
代々皇女が入寺した上京区の大聖寺、宝鏡寺、三時知恩寺(新町通今出川上ル)、左京区の霊鑑寺などの尼門跡寺院には、江戸時代の優れた人形が今に伝わっている。
拝領人形ともいわれ、大名への贈答品となった。
(京都検定テキスト)
うちわ&扇子・・・。
京うちわ
団扇は、扇子より先に用いられたと見られる。
正倉院御物や、太秦広隆寺に聖徳太子所持と伝わるものが最古の遺晶とされる。「団」の字は「まるい」を意味し、団扇の形である。
涼を取る他、貴入が顔を隠したり、人目を避ける用具でもあった。
京団扇は伏見深草名物として有名であった。
特徴は、江戸時代以降に定着した、柄の部分を後から差し込む「揃柄」にある。柄には豪牽な蒔絵を施したり、狩野派や土佐派の絵師が絵を描いたため、御所団扇といわれた。
骨には四、五年たった良質の竹を使う。
団扇は戦国武将の軍扇、大相撲の行司軍配、祭り団扇、台所の火起こしの構織団扇・岨妃塒代の町火消しの団扇、天狗の持つ羽団扇などなじみ深い。
透かし団扇は京都で創作された逸品。
一昔前なら夏の蝿、蚊除けに使われた。
京団扇は高級美術工芸晶として高い芸術性を誇る。
(京都検定テキスト)
扇子は、扇とも呼び、夏の涼を取る目的より、王朝時代の貴族の象徴として儀礼的に使われた。
奈良時代には格別の功績のあった老臣に「扇と杖」の使用が勅許された。
平安時代初期には宮中で侍臣に扇を賜わる儀式があった。
現存最古の扇子は平城京二条大路出土のものと、東寺食堂の旧本尊千手観音立像(現在は霊宝館安置、重要文化財)の腕内に奉納されていた檜扇で、檜の薄板を紐で結んだもの。
京扇子は王朝以来の伝統と能、舞、茶道、華道などの必需品とされ、寺院でも「中啓」と呼んで大切に扱う。
素材、製法によって板扇と貼扇に分けられ、貼扇はさらに紙扇と絹扇に分けられる。
金銀箔、漆、蒔絵などを施した扇子は、高級美術品として珍重される。
三船祭の扇流しや、京舞井上流の事始めで、家元から舞扇を戴く風景などは広く知られている。
(京都検定テキスト)
京うちわ
団扇は、扇子より先に用いられたと見られる。
正倉院御物や、太秦広隆寺に聖徳太子所持と伝わるものが最古の遺晶とされる。「団」の字は「まるい」を意味し、団扇の形である。
涼を取る他、貴入が顔を隠したり、人目を避ける用具でもあった。
京団扇は伏見深草名物として有名であった。
特徴は、江戸時代以降に定着した、柄の部分を後から差し込む「揃柄」にある。柄には豪牽な蒔絵を施したり、狩野派や土佐派の絵師が絵を描いたため、御所団扇といわれた。
骨には四、五年たった良質の竹を使う。
団扇は戦国武将の軍扇、大相撲の行司軍配、祭り団扇、台所の火起こしの構織団扇・岨妃塒代の町火消しの団扇、天狗の持つ羽団扇などなじみ深い。
透かし団扇は京都で創作された逸品。
一昔前なら夏の蝿、蚊除けに使われた。
京団扇は高級美術工芸晶として高い芸術性を誇る。
(京都検定テキスト)
扇子は、扇とも呼び、夏の涼を取る目的より、王朝時代の貴族の象徴として儀礼的に使われた。
奈良時代には格別の功績のあった老臣に「扇と杖」の使用が勅許された。
平安時代初期には宮中で侍臣に扇を賜わる儀式があった。
現存最古の扇子は平城京二条大路出土のものと、東寺食堂の旧本尊千手観音立像(現在は霊宝館安置、重要文化財)の腕内に奉納されていた檜扇で、檜の薄板を紐で結んだもの。
京扇子は王朝以来の伝統と能、舞、茶道、華道などの必需品とされ、寺院でも「中啓」と呼んで大切に扱う。
素材、製法によって板扇と貼扇に分けられ、貼扇はさらに紙扇と絹扇に分けられる。
金銀箔、漆、蒔絵などを施した扇子は、高級美術品として珍重される。
三船祭の扇流しや、京舞井上流の事始めで、家元から舞扇を戴く風景などは広く知られている。
(京都検定テキスト)
京小紋
小紋は友禅型染めの技法と同じだが、小さな紋様を、一色で型染めし、防染糊を置いたあと引染めするのが特色。
上杉謙信の紋付小紋帷子や徳川家康の小花紋小紋染胴服などは、小紋の技法を駆使して作られている。
江戸時代、小紋が用いられた裃が武家の正装となり、江戸で発展した。
初めは単色だったが、京小紋は彩色へと変化したことが特色。
型紙は、和紙の型地紙に刃物で模様を彫り抜いて作られる。
防染には米から作った糊が使われてきた。
小紋型紙の小さい紋様のものを鮫小紋、さらに微細なものは極鮫と呼んだ。
(京都検定テキスト)
小紋は友禅型染めの技法と同じだが、小さな紋様を、一色で型染めし、防染糊を置いたあと引染めするのが特色。
上杉謙信の紋付小紋帷子や徳川家康の小花紋小紋染胴服などは、小紋の技法を駆使して作られている。
江戸時代、小紋が用いられた裃が武家の正装となり、江戸で発展した。
初めは単色だったが、京小紋は彩色へと変化したことが特色。
型紙は、和紙の型地紙に刃物で模様を彫り抜いて作られる。
防染には米から作った糊が使われてきた。
小紋型紙の小さい紋様のものを鮫小紋、さらに微細なものは極鮫と呼んだ。
(京都検定テキスト)
京くみひも
くみひもは正倉院御物にもあり、糸を組み上げて一本の紐に仕立てる。
平安時代から神具、仏具、武士の鎧兜、刀の下げ緒、現代では羽織の紐、帯締め、懐中時計の紐、書画の留め具、袋物の紐、髪飾りなど用途は広い。
丸台や角台、高台などを使って数十本の糸を組み上げ、糸の交差する部分をへらなどで打ち込んで締める糸割り、糸合わせ、経尺などの準備工程、組工程、房付け、湯のしなどの工程を経て仕上げられる。
基本的な組み方だけで四十種類、模様の変化を入れると三千五百種類もあるといわれる。
(京都検定テキスト)
くみひもは正倉院御物にもあり、糸を組み上げて一本の紐に仕立てる。
平安時代から神具、仏具、武士の鎧兜、刀の下げ緒、現代では羽織の紐、帯締め、懐中時計の紐、書画の留め具、袋物の紐、髪飾りなど用途は広い。
丸台や角台、高台などを使って数十本の糸を組み上げ、糸の交差する部分をへらなどで打ち込んで締める糸割り、糸合わせ、経尺などの準備工程、組工程、房付け、湯のしなどの工程を経て仕上げられる。
基本的な組み方だけで四十種類、模様の変化を入れると三千五百種類もあるといわれる。
(京都検定テキスト)
京繍
繍は刺繍のこと。
刺繍の歴史は紀元前三千年のエジプトの墳墓から見つかるなど世界的に古い。
日本では飛鳥時代、仏画を刺繍で表現した、繍仏に始まったといわれ、京都では平安京の織部司に刺繍技術集団が置かれた。
平安時代の十二単、鎌倉時代の武将の胴服、室町時代には能装束、安土桃山から江戸時代を通じて華麗な京繍が好まれた。
京繍は「糸で描く絵画」と呼ばれるほど精緻な技法が用いられる。
現在使われている技法は約三十種類あるが、基本的なものは十五種類である。
一本の針と絹、金銀糸、太さと縒りの異なる多数の糸から、すべて手作業で模様を繍い出す。
刺繍と金銀箔模様を併用した繍箔による、小袖、能装束、婚礼の打掛は最高級品。
刺繍だけの絵画作品もあり、額に入れて鑑賞される。
(京都検定テキスト)
繍は刺繍のこと。
刺繍の歴史は紀元前三千年のエジプトの墳墓から見つかるなど世界的に古い。
日本では飛鳥時代、仏画を刺繍で表現した、繍仏に始まったといわれ、京都では平安京の織部司に刺繍技術集団が置かれた。
平安時代の十二単、鎌倉時代の武将の胴服、室町時代には能装束、安土桃山から江戸時代を通じて華麗な京繍が好まれた。
京繍は「糸で描く絵画」と呼ばれるほど精緻な技法が用いられる。
現在使われている技法は約三十種類あるが、基本的なものは十五種類である。
一本の針と絹、金銀糸、太さと縒りの異なる多数の糸から、すべて手作業で模様を繍い出す。
刺繍と金銀箔模様を併用した繍箔による、小袖、能装束、婚礼の打掛は最高級品。
刺繍だけの絵画作品もあり、額に入れて鑑賞される。
(京都検定テキスト)
西陣織
先に糸染めした糸を使い、紋様を織り出す高級紋織物。
完成までには二十以上の細かい工程がある。
多くの品種を少量ずつ作る方式をもととしている。
西陣織(↓225頁)は平安京の朝廷所属の織り手集団(大舎人座)以来の伝統を誇る。
応仁・文明の乱で、山名宗全らの西軍が陣地を構えたため「西陣」の名前が生まれた。
乱は約十年続き、織りの匠は堺や奈良に避難、乱後旧地に戻り復興させた。
西陣織は享保十五年(一七三〇)の西陣大火(西陣焼け)で織機三千余を失い、また再三の奢侈品禁止令どでも打撃を受けた。
明治時代初期には近代化をはかるため、佐倉常七・ 吉田忠七・井上伊兵衛をフランスのリヨンに派遣し、ジャカード機械織機を輸入し、絹織物の先進地となった。
(京都検定テキスト)
先に糸染めした糸を使い、紋様を織り出す高級紋織物。
完成までには二十以上の細かい工程がある。
多くの品種を少量ずつ作る方式をもととしている。
西陣織(↓225頁)は平安京の朝廷所属の織り手集団(大舎人座)以来の伝統を誇る。
応仁・文明の乱で、山名宗全らの西軍が陣地を構えたため「西陣」の名前が生まれた。
乱は約十年続き、織りの匠は堺や奈良に避難、乱後旧地に戻り復興させた。
西陣織は享保十五年(一七三〇)の西陣大火(西陣焼け)で織機三千余を失い、また再三の奢侈品禁止令どでも打撃を受けた。
明治時代初期には近代化をはかるため、佐倉常七・ 吉田忠七・井上伊兵衛をフランスのリヨンに派遣し、ジャカード機械織機を輸入し、絹織物の先進地となった。
(京都検定テキスト)
京友禅
江戸時代前期の町絵師で、扇絵を描いていた宮崎友禅斎の考案によると伝えられる。
京友禅の技法は型友禅と手描き友禅に大きく分けられる。
明治時代以後、型によって友禅模様を染める「写し友禅染め」が考案され、量産化の道が開かれた。
手描き友禅は下絵を描き、それに沿って防染糊(糸目糊)を置き、色挿しを行う。
伏せ糊を置いて地染めし、蒸して染料を定着させ、水洗いして不要な糊を流す。
鴨川や堀川では、この水洗いを「友禅流し」と呼び、古都の風物詩であったが、河川の水質保全のため現在は行われていない。
友禅染めに刺繍、金銀箔などを施した高級品もある。
(京都検定テキスト)
江戸時代前期の町絵師で、扇絵を描いていた宮崎友禅斎の考案によると伝えられる。
京友禅の技法は型友禅と手描き友禅に大きく分けられる。
明治時代以後、型によって友禅模様を染める「写し友禅染め」が考案され、量産化の道が開かれた。
手描き友禅は下絵を描き、それに沿って防染糊(糸目糊)を置き、色挿しを行う。
伏せ糊を置いて地染めし、蒸して染料を定着させ、水洗いして不要な糊を流す。
鴨川や堀川では、この水洗いを「友禅流し」と呼び、古都の風物詩であったが、河川の水質保全のため現在は行われていない。
友禅染めに刺繍、金銀箔などを施した高級品もある。
(京都検定テキスト)
京鹿の子絞り
絞染めは、着物や帯揚などに使われる朱色技法で、『日本書紀」にもその記述が見られる。
薄手の絹地の一部を指のつま先で小さく寄せて、その部分を糸で堅く括り、巻き締めて防染して地色を染める。
このあと糸を解くと染め残りがまだらに残り、まるで子鹿の斑点に似ているため鹿の子絞と呼ぶ。
絞り技法に疋田絞.一目絞、染分け技法に桶絞・帽子絞など多彩な技法がある。
絞った部分盛り上がり、着物全体に風合いと凹凸の独特の立体感がある。
老舗の料亭などでは、「のれん」に使用する例がある。
古くは女性の髷の飾りに使い、これを手絡と呼んだ
(京都検定テキスト)
絞染めは、着物や帯揚などに使われる朱色技法で、『日本書紀」にもその記述が見られる。
薄手の絹地の一部を指のつま先で小さく寄せて、その部分を糸で堅く括り、巻き締めて防染して地色を染める。
このあと糸を解くと染め残りがまだらに残り、まるで子鹿の斑点に似ているため鹿の子絞と呼ぶ。
絞り技法に疋田絞.一目絞、染分け技法に桶絞・帽子絞など多彩な技法がある。
絞った部分盛り上がり、着物全体に風合いと凹凸の独特の立体感がある。
老舗の料亭などでは、「のれん」に使用する例がある。
古くは女性の髷の飾りに使い、これを手絡と呼んだ
(京都検定テキスト)
京漆器
京漆器は器物の素材である木地(木や竹)選びから塗り、加飾と複雑な工程がある。
縄文時代の遺物から漆が見つかっており、伝世品としての最古の漆工芸品は奈良法隆寺所蔵の「玉虫厨子」(国宝)である。
豊臣秀吉と正室北政所の菩提寺である東山高台寺の「蒔絵調度類」(高台寺蒔絵↓224頁、重要文化財)は著名。
江戸時代、本阿弥光悦、尾形光琳らが蒔絵の意匠などにも才を見せた。
現在、京漆器の需要の大部分は棗など茶道具が主体で、他産地に比べ少品種で高級品である。
旧家なら正月のお膳は漆器であった。
木地作り、地固め、布着せ、地付け、くくり錆、錆付けなどの工程を経て、中塗り、上塗りなど塗りと研ぎが繰り返される。
加飾は蒔絵、螺鈿などに大別される。
蒔絵は漆で模様を描き、乾燥しないうちに金銀粉などを蒔き、さらに漆を塗って研ぎ出す。
一個の器に半年をかける高級品もある。
(京都検定テキスト)
京漆器は器物の素材である木地(木や竹)選びから塗り、加飾と複雑な工程がある。
縄文時代の遺物から漆が見つかっており、伝世品としての最古の漆工芸品は奈良法隆寺所蔵の「玉虫厨子」(国宝)である。
豊臣秀吉と正室北政所の菩提寺である東山高台寺の「蒔絵調度類」(高台寺蒔絵↓224頁、重要文化財)は著名。
江戸時代、本阿弥光悦、尾形光琳らが蒔絵の意匠などにも才を見せた。
現在、京漆器の需要の大部分は棗など茶道具が主体で、他産地に比べ少品種で高級品である。
旧家なら正月のお膳は漆器であった。
木地作り、地固め、布着せ、地付け、くくり錆、錆付けなどの工程を経て、中塗り、上塗りなど塗りと研ぎが繰り返される。
加飾は蒔絵、螺鈿などに大別される。
蒔絵は漆で模様を描き、乾燥しないうちに金銀粉などを蒔き、さらに漆を塗って研ぎ出す。
一個の器に半年をかける高級品もある。
(京都検定テキスト)
象嵌
象嵌の技術はシルクロードを経て日本に伝わった。
江戸時代には、刀剣の鐡などに豪華な象嵌を施すのが流行し、最も盛んとなった。
明治時代の廃刀令により、京象嵌は大打撃を受けたが、逆に欧米への土産物として珍重され、京都博見会などでその技術が海外に喧伝された。
金属に金や銀、赤銅などを嵌め込んで装飾するのが京象嵌。
ペンダント、帯留め、タイピン、高級バツジなどで知られる。
地金に細かい布目の溝を彫り、金、銀、銅などをツチで打ち込む布目象嵌が中心で、「目切り三年」といわれ、地金に布目タガネを小さなカナヅチでたたきながら、布目筋模様を入れる。
肉眼ではほとんど見えないほど細い布目に金、銀、銅などを嵌め、酸洗い腐食、漆焼、表面磨き、華麗な毛彫りなどの工程がある。
小物アクセサリーから重厚繊細な花瓶まで用途は広い。
(京都検定テキスト)
象嵌の技術はシルクロードを経て日本に伝わった。
江戸時代には、刀剣の鐡などに豪華な象嵌を施すのが流行し、最も盛んとなった。
明治時代の廃刀令により、京象嵌は大打撃を受けたが、逆に欧米への土産物として珍重され、京都博見会などでその技術が海外に喧伝された。
金属に金や銀、赤銅などを嵌め込んで装飾するのが京象嵌。
ペンダント、帯留め、タイピン、高級バツジなどで知られる。
地金に細かい布目の溝を彫り、金、銀、銅などをツチで打ち込む布目象嵌が中心で、「目切り三年」といわれ、地金に布目タガネを小さなカナヅチでたたきながら、布目筋模様を入れる。
肉眼ではほとんど見えないほど細い布目に金、銀、銅などを嵌め、酸洗い腐食、漆焼、表面磨き、華麗な毛彫りなどの工程がある。
小物アクセサリーから重厚繊細な花瓶まで用途は広い。
(京都検定テキスト)
感想
三十三間堂で・・・。
寂聴さんの青空説法があったころが懐かしい
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コメント
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何と朝から歴史と地理の辞典を見せていただきありがとうございます
私も歴史がすきなので京都の各地を見て回りましたが知らない所が
有り勉強に成ります
私は特に幕末の前後がお気に入りで京都は舞台になっていることが多く以前は
自転車で駆け回りました
さて、今年冬は雪が多く気温が低めで春花開花が遅れています
以前、同行した西山が懐かしいです
それでは、又🌸
ありがとうございます。
文武両道、忙しく駆け回っています(-_-;)
あのときのあの花・・・。
昨年はかろうじて一株
今年もあるでしょうか
楽しみにしています♫
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