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2.仮想本番旅行
さて、江戸時代のある日、往来手形も持たずに日本橋を出発した庶民の男性を、仮に嘉兵衛さんとしましょう。
当時、東海道五十三次を旅するのに要した日数は15日前後、1日30km程度を歩いたと言われますので、平地の歩行についてはこの数字を使ってみましょう。三鷹か小金井あたりで一泊し、丸二日かけて青梅市内までやってきました。この区間は食事にもさほど苦労しなかったことでしょう。
青梅市内で食料を調達し、山岳地帯に入ります。都会っ子の嘉兵衛さんにどれくらいの体力があったのか?ひ弱な現代人とは異なり、強靭な体を持っていたかもしれませんが、防寒着など重い荷物もあります。ここでは標準コースタイムの1.2倍程度で1日あたり7〜8時間の行動を仮定します。そうすると、3日目の夜は高水山の常福院でお世話になれたかもしれません。この先、飛龍山まで4日間、山中を歩きます。
でも、本当に4日間、まったく食料調達ができないまま歩くしかなかったのでしょうか?
私は昭和40年代の北海道の山間の村を肌で知っていますが、今では想像もつかないくらいたくさんの人が暮らしていました。今で言うと限界集落間近なところにも、食料品や日用品は一通りそろい、床屋や書店・レコード店、パチンコ屋まであったくらいです。さらに、今は人気の全くないもっと山奥にも、炭焼きや木こり、猟師が住み着いていました。都市化が進み、食料の大部分が点から点へと移動する昨今の方が特殊で、もともとは薄く広がりのある社会だったわけです。
そしてさらに遡れば、車が走る道路がない時代、登山道は生活道路でもあり産業道路でもあったはずです。海産物を山間の村へ、山の幸や工芸品を海辺の街へと行商する人がたくさん歩いていたのではないか。現代では、道路を行き交うコンビニのトラックを止めて弁当を買うことはできませんが、当時は大荷物を背負ったおばちゃんに声をかけ、食料を分けてもらうのも比較的容易だったに違いないと思います。おそらく嘉兵衛さんもうまく食いつないだことでしょう

日本橋を出発して7日目、飛龍権現で出会った行商人から麓の丹波山村についての話を聞いた嘉兵衛さん、ここで下山して休息をとることにしました。
(つづく)
ゆっくりしか進みませんので、また見つけてください
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