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中 新改正摂津国名所旧跡細見大絵図 1836 年ころ
右 西宮町浜絵図 1841 乃至 1864 年ころ
参考資料集
大阪高低差学会 西宮の古代地形を歩く
http://osakakoteisa.blog.fc2.com/blog-entry-12.html
西宮が入り海だった時代と現在の標高色分けの地図を重ねて、わかりやすく示してくださっています。
旧来の山陽道(古い時代の西国街道)が、廣田神社から芦屋打出まで、山裾に沿って入り海の縁を北東から南西に続いていたことがうかがわれます。
今昔マップ on the web 京阪神圏、西宮あたり
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.728352&lng=135.338774&zoom=14&dataset=keihansin&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
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西宮市 にしのみやデジタルアーカイブ
https://archives.nishi.or.jp
地図・航空写真
https://archives.nishi.or.jp/02_subcategory.php?major_id=7
古地図
https://archives.nishi.or.jp/03_kekka.php?search_mode=1&mode=0&major_id=7&small_id=1
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【高精細】慶長十年摂津国絵図
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14751
慶長10年(1605)9月、江戸幕府より全国に発令された、国絵図と郷帳の作成・提出指令を受けて作成された摂津国の絵図、ということです。
広田神社は廣田大明神、西宮神社は夷宮と書かれています。
廣田村(現、西宮市広田町)、越水村(現、西宮市越水町)を通って南西に下ってきた西国街道が、シュク川(現、夙川;この時はすでに南北に付け替えられていた)の西岸の、宿久村(火は久の誤記:芦屋市の森具;現、御茶屋所町と松下町)の西、打出村の東の地点(現、芦屋市春日町あたり)で、西宮町(現在の西宮神社のあたり)からの中国街道に続く道と合流していることがわかります。
森具 = 守具 = しゅぐ = しゅく = 宿 = 宿久 = 夙、ということだそうです。
西国街道がまだ西宮神社の方へまわっていなかったさらに昔、街道の交点の宿(宿駅)だったのが、森具、夙の語源ともいわれているそうです。
ちょっと歴史っぽい西宮
江戸時代〜西国街道と中国街道
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55425819.html
この絵図では、西国街道は、西の大志賀村(現、伊丹市大鹿町)から伊丹村(現、伊丹市春日丘あたり)、北河原村(現、伊丹市北河原)、神崎川(現、軍行橋あたり)を越えて、下河原村(現、伊丹市下河原、大阪国際空港の北端)を通り、東の瀬川村(現、箕面市瀬川町)までの間、古来の山陽道は、主要な街道筋にはなっていません。
江戸幕府は、このころから五街道を整備しはじめ、五街道に次ぐ西国街道は、その後整備されました。
五街道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93
西国街道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93
山陽道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%99%BD%E9%81%93
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【高精細】新改正摂津国名所旧跡細見大絵図
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14752
江戸時代より古い時代の地図から天保7年(1836)に校正再刻、刊行されたものということです。
夙(宿久)の集落は、夙川の西岸で、武庫郡と莵原郡の郡界(太い線)より東、武庫郡にあります。
旧山陽道にあたる道筋は描かれていません。
西国街道は、廣田村(現、西宮市広田町)を通り、越水村(現、西宮市越水町)と中村(現、西宮市中須佐町)の間を南下し、西宮神社の東に至っていることがわかります。
中国街道は、西宮神社の東から津戸川(現、東川)を角ノ橋という橋で東へ渡っています。現在、同じ道筋の橋はありませんが、正念寺の東側の南北の用海筋が六湛寺川を南北に渡る橋、角之橋に名前が残っています。ほぼこの位置にあったのでしょう。
mapfan 西宮市付近、正念寺と角之橋
https://mapfan.com/map/spots/search?c=34.73416374496796,135.34330545097987,17.99676857978186&s=std,pc,ja&p=none
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【高精細】西宮町浜絵図
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14753
図中に天保12年(1841)の記述があること、また、天保14年から元治元年(1843〜1864)までの貼紙があることから、天保末期頃に作られた後、幕末まで使用されたもの、ということです。
西宮神社東門から東への道は、正念寺で北に向きを変え、そこには与古道と書かれていて、与古道は北へ、中村を通過して廣田村に続いています。現代に伝わる西国街道です。
正念寺の東で、西が六湛寺川、東が東川とも川が二筋あるのは、現在と同じです。
一つ前の新改正摂津国名所旧跡細見大絵図にあります角の橋は文字が入っていませんが、正念寺の北で六湛寺川と東川を渡って東へ、尼崎道が続いているのが、現代に伝わる中国街道です。
西宮神社から西へ、往還道とあるのが西国往還(西国街道)で、その西には兵庫道と書かれています。
この時代には、西国街道は廣田村から南へ、西宮神社の門前町、西宮町に下り、西へ向きを変えていたようです。
守具(夙、宿久)の集落は、夙川の西岸にあります。
廣田村から越水村を通り、守具村を通って西国街道に合流する細い道も描かれています。旧山陽道にあたる道筋は、村々を結ぶ細い道、またはあぜ道のような道として残っていたのでしょう。
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西宮町周辺絵図
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=7985
1843 年ごろの地図ということで、一つ前、西宮町浜絵図と道筋はだいたい同じです。
廣田村から越水村を通り、守具村を通って西国街道に合流する細い道は、打出村の東の端あたりで合流しているようです。旧来の山陽道、古い時代の西国街道が相当すると思われます。
現在、芦屋市春日町にある道標が旧打出村の東の端あたりのこの合流地点なのでしょう。
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二万分の一地形図*西宮
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=1882
大正時代の西宮の地図ということです。
芦屋市春日町にある道標は、この時代の打出の集落の東の端あたりとわかります。
その位置から北へ道が分岐して田(水田)ですぐに途切れ、その先は等高線のような曲線が森具の集落へ続いています。
平野といえどもこのあたりには、現在でもわかりますが、高低差があり、田は高低差に沿って棚田となり、そのあぜ道が水平方向の通り道になっていたと思われます。
この等高線と思われる線に沿った道があったとしましたら、旧山陽道にだいたい相当していたと思われます。
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にしのみやWebGIS 西宮市地理情報システム
https://webgis.nishi.or.jp/index.php
白地図を選んで表示させますと、標高マップ、空中写真などを重ねて表示させることができます。
1945 年ころの空中写真を重ねますと、芦屋市春日町の道標から森具の集落まで、田のあぜ道が一つ前の二万分の一地形図の等高線に近いことがわかります。
標高マップを重ねますと、旧山陽道が、山裾に沿って、高低を少なくしながら南西に下ってきていることもわかります。
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新日本古地図学会
https://blog.goo.ne.jp/kochizu
神戸市.西宮. 地形図大正12年一部大正鉄道補入昭和2年 25.000分の1
https://blog.goo.ne.jp/kochizu/e/cac8c2b9844b5527b264477bd99e04b7
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/c4/2271b955453ea74e731b63cd2af8479f.jpg
芦屋市春日町の道標から森具の集落まで、田のあぜ道が二つ前の二万分の一地形図の等高線に近いことがわかります。
旧山陽道の名残、または旧山陽道はだいたいこのように通っていたということと思われます。
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