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医療従事者である私が、その日に受け持たせて頂いた患者様がA氏でした。朝の挨拶に伺ったところ、ベッドサイドのテーブルの上に谷川岳に関する書籍が置いてあった為、“登山をされるのですか”と尋ねたところ、“若い頃は様々な山に登った”と話してくれました。聞けば、谷川岳や八ヶ岳を中心に様々な山や岩壁を登られ、厳冬期登山もされていたとのこと。登山に熱中し始めていたその頃の私は、山の話が出来るのが嬉しく色々と山に関する話を伺いました。いずれは冬山にも挑戦してみたい旨を伝えたところ、A氏は“是非貴方に自分の使っていたピッケルを譲りたい”と申し出て下さいました。職務上関わりを持った患者様から、そのような贈り物を頂くのも気が引けたため丁重にお断りしましたが、どうしてもという事だったので自分の住所をお伝えすることとしました。私の勤める部署は患者様の出入りが激しく、A氏はその日のうちに他の病棟に移動されたため、関わりを持てたのは半日程度でした。
それから約一ヶ月後、A氏より私宛に荷物が届きました。ピッケルが入っているものとワクワクしながら開封したところ、中に入っていたのは大量の缶ビールと山岳関係の古い書籍でした。添えられていた手紙には、おおよそ以下のような内容が記されていました。
“その後、無事退院することが出来ました。入院中に約束したピッケルの件ですが、貴方にピッケルを譲ることを迷っています。登山の現役を退いた私にとって、山の話を理解してくれた貴方にすっかり嬉しくなり、ピッケルを進呈すると約束しましたが、自分の身と周囲の山にのめり込んでいった人々のあり方を見て、ためらいがあります。私は会社の仕事より山への思いが心を占めるようになり、その結果家族に経済的な負担をかけ、常に遭難の心配をかけることとなってしまいました。小さい子供を置いて一の倉沢に入ったことも度々あり、随分と自分本位な行動をしたものです。その結果、会社員として上に行く事は出来ず、今でも夜勤のパートに出て女房に迷惑をかけている始末です。ピッケルを進呈するのが惜しいわけではなく、立派な職場に勤めている貴方の将来を壊すことになるのではないかと危惧しているのです。あの約束は私が軽率な男であったと笑って済ませて頂ければ幸いです。”
A氏は私が山に熱中するあまり、家族を顧みることをせず、仕事や家庭ではなく山に全ての情熱を注いでしまう事を心配して下さっているようでした。確かに山への興味は尽きることがなく、家族に心配をかけながら登山に行っている事もある私にとって、心に留めておかなければならない提言をA氏はしてくれたのだと思います。A氏には、手紙の内容を踏まえ、家族に迷惑がかからぬよう身の丈に合った山行を今後も続けていきたい旨を返信しました。その後、A氏とは数か月に一度のペースで文通する仲となりました。
その後、昨年の4月、ふとA氏が私の自宅を訪ねて来られました。私の住所を頼りに10km近い距離を自転車を漕いで訪れて下さったようです。その際、A氏より例のピッケルを譲り受ける事となりました。“文通をするなかで、貴方が変わらず山への興味を抱き続けいていること、雪山への関心が薄れていないことを感じ、やはりピッケルを譲ることを決めました。”との理由で、わざわざ自宅まで出向いて下さったようです。“雪山ではアイゼンとピッケルのコンビネーションが非常に重要です。今後冬山に行かれるようでしたらくれぐれも気を付けて下さい”とのお言葉も頂きました。A氏より頂いたピッケルの木製の柄には多くの傷があり、ピックやブレードは鋭く研ぎ澄まされていました。おそらくA氏が手入れをして、彼の山行に携えていた大切な相棒であったと思われます。そのような代物を私に譲って頂ける事に大変恐縮しましたが、同時に非常に嬉しく感じました。是非お茶でも飲んで行って欲しいとお誘いしましたが、A氏はそれには及ばないと、ピッケルを渡してすぐロードバイク風の自転車に跨り颯爽と去って行かれました。
その後のA氏からの手紙の中に、印象深い一文がありました。
“山に情熱を燃やしていた20歳の青年は、アッとの間に80歳近い老人となりました。時間が過ぎるのは本当に早いものです。ですが私は自分を老人とは思っていません。今が絶好調であると思いながら日々を過ごして行きたいと思っています。”
個人的な話ですが、私は2年前に結婚し直後に第一子を設けました。仕事や慣れない育児に追われ、この2年間はそれまで以上に時間が経つのが早く感じられました。A氏が言うように、人生は本当に一瞬の出来事なのかもしれません。家庭も維持せねばならず、自分の好きな時に好きな山へ行く事はなかなか難しいですが、自分が老いて自らの人生を振り返った時に後悔することのないよう、今後もこの登山という趣味を続けていけたらと思っています。また、雪山はまだほとんど残雪期しか経験したことがありませんが、A氏より頂いたピッケルは今後の山行で大切に使わせて頂こうと思います。自分より50歳も年の離れた方と交流を持つ機会などそうはないことと思います。山が繋いでくれたこの出会いに感謝し、今後もこの関係を大切にしていけたらと思います。
妻子が年末年始の連休で帰省しており、久しぶりに一人の時間が出来たので、A氏との出会いをまとめてみました。長々とこの駄文を読んで下さった方がいらっしゃいましたら、大変ありがとうございましたm(_ _)m
写真はA氏より頂いた、彼が過去の山行で撮影した写真(阿弥陀岳南稜)、書籍、ピッケルです。
takumiki2さん今晩は&はじめまして。
何かすうっと心に入ってくる文面に驚いています。
内容と文章の構成が絶妙な点もありますが、山だけでなく別な事柄にも共通しているのかなぁと感じました。
「身の丈」は非常に大切な点で有りますが、「のびしろ」も気になります。
多分とある老クライマーの方は若さゆえに「のびしろ」(もしかしたらそれ以上)を山に使い切ってしまったと思っているのではないでしょうか。
当時のポテンシャル位置(高さ)が判りませんので何とも言えませんが、もしかしたら「のびしろ」を山と家族とそれ以外(仕事)にも上手く配分すべきと言われいてる気がしました。(以上感想です)
のびしろは心の持ち様と考える事も出来ますが、時間軸があるので限りが出て来ます。
1日24時間、1年365日、健康でいられれば人生80年、私は残り30年をどの様に配分するか迷う所です。
因みに80歳を超えた場合は?
老クライマーの印象深い文章へとつながる・・・と思い、今後の30年、40年への思いを新たに致しました。
takumiki2さんにおかれては年齢のアドバンテージがまだまだ有るので、楽しみとしてそこそこ頑張って頂きまして、万事ご活躍をされる事をお祈り申し上げます。
kintakunteさん、初めまして。コメントを頂きましてありがとうございます。
“「のびしろ」を山と家族とそれ以外にも上手く分配すべき”
正にその通りかと思います。時間には限りがあるので、趣味と家庭と仕事の全てを満点にするのは難しいですね。もともと凝り性なので出来れば毎週でも山に行きたいところなのですが、家庭は維持しなければならないし、仕事でも中堅的な立場になりつつあり、業務量も増えています。趣味にばかり時間を費やしている訳にもいかないのは理解していますが、山への興味が尽きる事はなく...。私自身にとっての「のびしろ」をどのように振り分けて行くかが、今後しばらくの課題ですね。
長文を読んで頂き、また、感想も下さり、大変ありがとうございました!
ちなみに私も黒部の山賊読みました。いつか雲ノ平やその周辺にも訪れてみたいものです
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