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登山は知力体力気力。全てにおいて最早若いのに敵わないのは分っている。やはり華奢で小さくて若い女性に抜かれるのは情けなくなる。意地では勝てない。ただ微笑んで挨拶し見送るしかない。「登山何年目ですか?」山女の覚束ないストック捌きに聞くこともある。「2年目です。」それでも抜かれる。五十で始めた格好だけの登山姿を見透かされているような気がする。ストックが無ければよれよれだ。登山前に飲んだアミノバイタルの効果が切れたころ足が止まる。多くの山女はトレーニングとして山に登っている。更にトレイルランを楽しんでいる女性はもっと凄い。8月の暑い中、水が足らないと不安になっている私の脇をボトル1本で走り抜けていく。縦走のみの自分に対し、もう復路!高尾山から陣馬山までのコース、片道14km、標高差600mある。しかも凄いup-down。けして若くは見えない女性、小さく、細い、筋肉など余計なものはない。全身日に焼けて真っ黒だ。精悍な姿は見惚れるしかない。
「か弱きもの、汝の名は女なり」ハムレットの名言だ。これは嘘ではない。ただ勘違いしてはいけない。女性は確かに筋力、ガタイは劣っているかもしれない。しかし耐久力、適応力に優れ、何といっても生命力が違う。120才まで生きられたのは女性だけ。男性の最高齢は113才を越えられない。65才以上の女性は男性の1.27倍。何が違うのか?高齢に耐えられるだけの精神力、耐久力を男性は兼ね備えていない。女性は人間の弱さを認めた上で耐え忍ぶ力がある。男性には残念ながらその力がない。寛容さが足りない。老いに勝とうとする。到底無理なのだ。ハムレットの言いたかったのはこのことに違いない。
遺伝子的に言えば、女性が元であり、男性は遺伝子の多様性をもたらすため生みだされた。聖書ではアダムの肋骨がイヴを生んだと言うが反対だ。基本は女性。優性遺伝を残すために便宜上男性を造りだした。男性が多く生まれるのは女性にとって優勢遺伝子を選びやすくするため。人類は社会的動物である。男性は最適な労働力、政治力、闘争力、繁殖力を提供する。宗教では社会機能性で男性を上位にする。一方、有用な一方で劣化も早い。宿命とも思える。長生きはできないのだ。70を越えるか越えないかで消える男性の多さである。60代でもはやお役御免となる。正に私は差し掛かっている。
山は昔、男のものであった。これは危険で生命を脅かす場所であった。女性は近寄るべきものではなかった。一歩間違えば死がお待ちかね。獲物はいるが、いつ獲物になるか分からない。道に迷えばさようなら。戻れる道を探すのは容易ではない。水食糧が尽きた時点で終了。狐や狸の餌になる。天候が急激に変わる。急速な体温低下は死を招く。まず安全な道を作り、道標を設け、木を伐採する。過激な重労働である。今でこそ気軽に登山ができるが、これは先人のおかげだ。安全が確保されて初めて山女が生まれる。危険を避けるのが女性本来の本能だから。女性には長く生きる知恵がある。今は携帯から、GPSで道を迷うことがない。雨雲レーダーで天候を探れる。トレッキングウェア、リュック、ストック、登山靴の安全、軽量化が進み、アミノバイタルのような栄養食もある。守ってくれる。正に山女を助けている。勿論私のような素人もである。
山に登ることは自然に対峙することに変わりはない。自然は怖い。牙をいつ剥いてくるかくるか分からない。いつも死は隣り合わせなのだから。しかし、山に魅せられるともう居ても立っても居られない。これは山を宗教の世界で捉えた先人に通じる。役行者で登山は始まったという。これは仏教でも神道でもない。自然崇拝の極致なのだ。体の限界を感じながらも一度山を登る陶酔感を憶えるとやめられない。これが山女を生む山の魅力になる。熊野、出羽三山、高尾、修験の場は魅了してならない。これは山に神を見ることに他ならない。森の中は緑に染まる、山上で望む空は永遠の青、流れる雲は白くコントラストを描く、眼下に広がる街並、澄む空気、静寂の世界と木々を騒めかせる風、一度虜になると山は頭から離れなくなる。死を賭けてであっても山女が登り続ける理由がここにある。
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