ここ1週間、インターネット上では御嶽の噴火に関する議論が交々だが、
その様子を見ていく中で、今回の噴火で多数の死傷者が出たことは、
火山噴火予知連絡会が予知できなかった怠慢による官災であるとか、
税金の無駄遣いであるとか言っている人たちが散見される。
そういう人たちはきっと、自然に対する畏怖感を欠片も抱いておらず、
自分で直接携わっているわけでもないのに、
すべからく科学技術によって制御されるべきであって、
できないのはそれに携わる者たちの怠慢である、
などと無責任にも本気で思っているのだろう。
昔の人は、自然を恐れ、崇め、すがり、
自分たちの精神の中に住まう特別なものとして、
畏敬の念をもって接してきた。
その証に、お山の至るところには、
無形の自然を祀るための造形物が残っている。
人々は、自分たちが脆弱な生き物であり、
自然現象によってその日常が左右されることをよく知っていたからだと思う。
翻って現代、色々な物事が科学によって解明され、
ぼくたちはインターネットを通じて、
以前では決して知り得なかった情報を獲得することができるようになったことで、
日常生活における豊かさは大きく増したのかもしれないけれど、
自然さえも科学技術によって制御されるべきもので、
それによって我々は守られて当然である、
という傲慢で危険な考え方が平然と跋扈するようになってしまった。
歩くという、人間のごく単純かつ原理的な行為によって成り立つ登山において、
元より人間の手が及ぶところなどたかが知れている。
そもそも、人間の歴史において、登山という行為が日常化したのは、
せいぜいここ100年程度の話であって、整備された登山道以外は、
未だ人間の手がほとんど及んでいない領域であることに変わりはない。
そんな中で、登山においても、行為者自身が考えることを能わず、
科学技術による安全の担保を与えられるべきだ、
などという考え方は、もはや多様性の範疇外であり、
登山という行為以前に、人間の精神を頽廃させてゆくものだろう。
そんなことを感じた1週間だった。
救助に携わっている方々に対してはもちろんのこと、救助活動を支えているのは、大半は登山とは何の関わりも無い方々の税金ですよね・・・
コメントありがとうございます。
仰る通りですね。
そのことも忘れてはならないことだと思います。
今回のことに対して、お山に関わる者として、
少なくとも自身は当事者意識のようなものを抱いています。
激しく同意致します。
山を歩けば歩くほど、人間の小ささを感じます。
自然はあまりにも偉大であり悠久なる存在です。
私達人間は自然に対して謙虚に対峙したいと考えます。
kihaさん
コメントくださり、どうもありがとうございます。
自然のバランスが崩れれば、
人間の生活も崩れる。
干ばつになれば、人は食べ物を失い、
洪水になれば、生活の場所を失う。
それが科学技術によって
ある程度コントロールされるようになったことで、
ぼくたちは安定した生活の恩恵を受けています。
けれど、自然の力に対して、思い上がってはいけない。
誰かが予測できたからどうこう、
予測できなかったからどうこう、
というのは、ただの結果論ですから。
そんなことを平然と言っている人を見ると、
居たたまれない気持ちになります。
motchさんの意見に同意です。
我々は先人達が研鑚してきたは文明を利用して、文化的な生活を送ってます。が、人類の文明なんて未だ大自然の前ではちっぽけなモンなんですよ。
はじめまして、でしょうか?
(記憶違いなら申し訳ありません)
コメントありがとうございます。
自然に対して科学技術が伍せると思うのは、
先人が築いた科学技術をリスペクトする気持ちが
薄れている傾向なのかもしれませんね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する