不思議な体験とはいっても、脚のない遭難者をみてしまったとか、空に浮かぶ発光体に追いかけられたというような類の話ではない。先祖返りや隔世遺伝的な話である。
そんな話ですが、少々お付き合いください。
皆さんは「今まで登ってきた山々の中で、一番印象に残っているのはどこですか」と聞かれて、どこを挙げるのでしょうか?
私は、迷うことなく「白馬岳」と答えます。
夕暮れ時に頂上から北方を望めば、日本海には漁火が、そして空には星が輝き始めている。
振り返り南方を望めば、雲海から背を出している北アルプス、中央アルプス、南アルプス、そして富士山までくっきりと見渡すことができる。視線を落とせば、足元には大雪渓に、方や一方ではお花畑が拡がっている。夕焼け時に見せる美しいグラデーションカラーは果てしなく宇宙を感じさせる…
平成元年の夏合宿に登ったあの頂上から眺めた景色を、私は今でも忘れられないでいる。
心に刻み込まれたあの大パノラマは、私の大切な宝物となっている。
当時の報告書を読むと、出発当日に台風13号の直撃を受け2日延期を、さらに白馬山荘キャンプ場でも前線通過に遭い1日ビパーグを余儀なくされた合宿でした。自然の猛威に晒されたわけですが、その前線による強風が下界の塵を吹き飛ばしクリアにならなければ、あの美しい景色にも会うことはなく、それを思うと何がどう影響するのか?本当にわからないものだと痛感させられたものでした。
合宿が終わり実家へ戻り、祖母と話をしていた時の事です。
白馬岳からみた景色のことを土産話として話をしていたところ、表情が固まり不可解な面持ちで私を見つめている祖母がいました。
「どうしたの?」と聞くと「お前の死んだ爺様が、同じことを言っていたよ」「白馬嶽からみた景色は素晴らしく一番好きなんだと、私に何度何度も話をしてくれたよ」と・・・
我家のルーツは長野県更埴。祖父は昭和20年代に亡くなっているので、私はもちろん会ったこともなく、それまで意識すらしたこともない人でした。今のように医療技術が発達していて戦争などなければ、あの景色を一緒に眺めることもあったのかもしれません。
茨城に住んでいた私が高校でワンゲル部に入部し、大学では弓道部からワンゲル部へ転部し、そして執行部としてのメインである夏合宿に白馬岳が設定された流れが、今では運命であったように思えるのです。
山に登っていると精神が研ぎ澄まされていることを感じるときがある。
息を切らし、大汗をかきながら登ることが、世俗での邪悪な思いを清め、垢を洗い流すのであろうか?
やがて稜線へ出た頃には心地よい世界が拡がっており、濁りのない澄んだ自然の中に自分の身を曝け出してみる。朝夕にみせる紅(くれない)には感動させられ、厳しい自然の中では自分の存在など無に等しく、生かされていることに感謝せずにはいられない。
山ひとつとっても人生は出会いと学びに満ちている。
夢はあの景色をもう一度でいいから眺めること。
今はその時のために体力を養うこと。
山の神は、私にチャンスを与えてくれるのでしょうか?
初めまして、本題とは違うことで失礼します。
今、いつごろからキスリングがなくなったか(あまり使われなくなったか?)
ということに関心があります。金がない学生時代はわざわざ荷物を増やしてでも、キスリングで行ったのですが、今はそのキスリングも物置の中です。
集合写真を拝見すると、今風のザックもありますが、1989年まではキスリングを使っていたようですね。女性が背負子を背負っているのにも驚きでしたが。
コメントありがとうございます!
私は1967生まれです。高校から山登りを始めましたので、 80年代の話をさせて頂きます。
高校の部室にはキスリングが常備されておりました。ご指摘の通り、ザックを購入できない生徒が使っていました。大学時代80年代半ば以降はザックが主流となり、キスリングは荷造りの訓練になるため主に新入生が使っていました。最近は見かけなくなりましたが、 2〜3年前、日光男体山の上りを大学の登山部が全員キスリングで登っているのを見かけました!
私の個人的な主観ですが、 80年代前半で徐々にキスリングが使われなくなったと思っています。以上です!
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する