先日、山岳事故の捜索をしておられる方と話しをする機会があった。
発見現場は一般登山道から200m下。
何度もその近辺は通過していたが
この日はたまたまなのかメンバーの感で
懸垂下降を2回くりかえしてたどり着く。
状況から想像するに一瞬バランスを崩して、持った木が折れて、
滑る枯葉の上に乗ってしまい一気に200m下に滑落。
今までの考えを覆される程の滑落距離と
その現場で首の骨は折れていたらしい。
おそらく即死であっただろうとのこと。
遭難から約2週間後に発見された。
新しいGPSを手に入れてとてもうれしそうに家を出たそうだ。
実は、お話していただいた彼、
捜索には何度も参加しているが
実際に要救(要救助者)を発見したのは初めてだった。
家族ではない、見ず知らずの人の捜索。
そしてほぼ第一発見者。
無線での連絡の後、現場保存のために写真を撮影。
淡々と冷静にその場は対応した。
使命感からできたそうだ。
終了後、捜索隊が集まる場。
別働隊の遭難救助もこの日に解決し、皆さんは安堵の表情だった。
一旦、一件落着でヤレヤレのはずが帰り道では涙がこぼれてきたそうだ。
生とは?死とは?
たくさん考えたそうだ。
私も震災ボランティアの時にたくさん考えた、答えの出ないこの問い。
登山ブーム。
「山は楽しい。自然は素晴らしい。」
そんなコピーが巷にはあふれている。
私もそのブームに乗った形で山に出会い、惚れてしまい、
この丸2年間、毎週どこかの山を歩いている。
実際、わたしも何回か「やばかった」という経験もしている。
その度に装備を足したり減らしたり勉強したり。
それも山の楽しみの一つと思っている。
そして、運のいいことに私はまだ生きている。
遭難。
誰もが遭難したくてしているわけではない。
ただ、その遭難というリスクと紙一重の遊びであることを
何人の登山者は認識しているのだろうか?
そして、リスクに対しての最大の備えはできているのか?
山、自然、達成感、遭難、生と死、捜索ボランティア
いろいろなタグが出てきてまとまらない。
「自分には起こるはずがない。」
「人のことだから関係ない。」という声も、わかる気がする。
ただ、見ず知らずの人を探す彼ら、
そして見ず知らずの人のために涙する彼ら。
残される遺族はもちろんのこと、多くの人が
あなた一人、私一人のその「リスクのある遊び」には
携わっていることを決して忘れてはいけない。
人はみんな、山に入れば、生きて帰らなければならない。
「山ってええところやで!」と人に話しをする時は
「死と隣り合わせであること」も一緒に伝えなければならない。
「一緒に登りましょう」と登ったときは
絶対にみんなで降りてこなくてはいけない。
とりあえず、今はそれだけしかわからない。
そして、私は来週も山に登ります。
山が好きだから。
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