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2025年初ランは生田緑地の桝形山と岡本太郎美術館まで行ってきた。ホカのスカイフローも本日本格デビュー。最初はクリフトンより横幅が少し狭い気がしたが、途中からまったく気にならなくなった。箱根ランナーを見習って、今年も元気に走ります♪
#初ラン #走り初め #朝ラン #早朝ラン #ランニング
オーディブルは千葉聡『ダーウィンの呪い』を今朝から聞き始める。
人間が特定の目的(より愛らしいペット、より美味しい肉や乳、より生育スピードの速い家畜や穀物、より大きな実、より美味しい果実)のために進めてきた品種改良が「人為選択」と呼ばれるのに対して、ダーウィンのいう進化とは、方向性も目的もないランダムに生成された変異が、刻々と変わる周囲の環境による選択(自然選択)のふるいにかけられた結果であり、特定の方向に進む進歩や発展、発達とは根本的に違う。だが、いまだに進化(evolution)は特に人間社会に関する文脈では「進歩」「発展」と同義だと誤解され、その誤解が「適者生存」とか、「勝ち組」と「負け組」の固定とか、人種間の優劣(優生思想)とかいう、さらなる誤解を生み出すフラグとなっている。全部違うというのが本書の主眼なんだけど、なんでそんな誤解がまかりとおってきたのかを深掘っていくと、世間の人たちが誤解するのもしかたないよねと納得できる理由がいくつも出てくる。
誤解を生んだ理由の1つは、ダーウィンが『種の起源』を著す前から、進化(evolution)といえば「進歩」「発展」の意味だったから。evolutionの原義は「展開する」で、コンパクトに折り畳まれていたものを広げることを意味する。17世紀には、精子や卵の中に子どもの雛形が入っている前成説が主流で、それを「展開する」のが発生の過程だから、エヴォリューションは個体発生を意味した。成体という目標に向かあって発達するのが個体発生であり、それを生物全体に広げ、単純で無秩序な状態から複雑で秩序ある多様性へと発展することもエヴォリューションと呼んでいた。
2つめの理由は、ダーウィン自身は『種の起源』の初版では、目的をもたないランダムな変化を「トランスミューテーション」と呼び、方向性を持ったエヴォリューションと区別した。だが、末尾で1度だけ「evolve」という動詞を使って、「こんな壮大な生命感があるーー生命は、最初一つか少数の形のものに吹き込まれた。そしてこの惑星が重力の法則に従い回転している間に、非常に単純な始まりから、最も美しく、最も素晴らしい無限の姿へと、今もなお、進化しているのである」と記した。たしかにこれは「秩序ある発展」という意味ではなく、目的を持たない「展開」の意味でエヴォルヴといったともとれるが、ダーウィンの記述は版を重ねるごとにぶれていく。後の版では獲得形質の遺伝というラマルク説も大幅に受け入れ、方向性のない変化という主張も後退させ、みずからエヴォルーションという言葉も使うようになっていく。19世紀英国社会に広く浸透していた進歩主義に迎合しなければ、自説が社会に受け入れられないと考えたからかもしれない。
「いずれにせよ、方向性のない進化というダーウィンの革新的なアイデアは、ダーウィン自身がのちの封印してそれほど強く訴えなかったこともあり、当時は社会的にもあまり意識されなかった。だからダーウィン進化論が、当時の社会の進歩観に衝撃を与えたわけでも、それと対立したわけでもない。それどころか社会はそれを進歩主義の推進力に利用したし、ダーウィンもそれを利用した」
第3の理由は、進化が進歩・発展から切り離されると、ディストピア的な終末論と結びつく可能性があった。ダーウィンのブルドッグを自任していたハクスリーは「進化は下等な生物から人類を進歩させたプロセスであり、より高度で進歩した未来へと人類を導くものだ」というよくある誤解を説くため、進化の無目的性を強調する論陣を張った。どこへ向かうかわからない盲目的な進化の先に出てきたのは、底しれぬ闇のような虚無の深遠であり、この世の終わりともいうべきその姿は、HGウェルズが「創造における無目的な拷問というビジョン」を表現したという『タイムマシン』で結実する。
「本来のダーウィンの進化論は、進歩を否定する。行き当たりばったりと偶然でしか行き先が決まらないので、未来がどうなるかは誰にもわからない。その未来は今より多少ましかもしれないし、逆に悪夢のようなぞっとする世界が待ち構えているかもしれない。この虚無の深淵をのぞき込むような恐ろしい世界観は、進歩が幸福な未来を実現すると信じる進歩史観とは相容れないものだ。進歩ーー光を信じられなくなれば、彼らには堕落とこの世の終末ーー闇が待っている」
第4の理由は、「自然選択による進化=適者生存」という言葉から強く連想される「強い者、賢い者が生き残り、弱い者、愚かな者が排除される」という排除の論理。『種の起源』の初版には「適者生存」という言葉は登場せず、ハーバート・スペンサーが著書『生物学原理』で、「適者生存とは、私がここで力学的な用語で表現しようとしたもので、ダーウィン氏が、自然選択、すなわち生物の闘争における有利な品種の維持、と呼んだものである」と記したのが最初。ダーウィンの自然選択はもともと「有利な変異を維持し、不利な変異を除去することで、新しい性質を創造する(→多様性につながる)」ものだったが、スペンサーの影響力に屈したのか、『種の起源(第5版)』では、ダーウィン自身が「個体の違いや変異のうち有利なものを維持し、有害なものを駆逐することを、私は自然選択、あるいは適者生存と呼んできた」と記して混乱を招く。
「適者生存という言葉が作り出した、進化と適性という概念の結びつき、そして善や良という価値とのリンクは、さらに「闘争の呪い」と融合し、闘争による社会の進歩と貧富・格差の存在、富裕層の特権、さらには植民地支配を正当化する思想を生み出したのである」
社会進化論の生みの親、スペンサーはダーウィン流の「適者生存」をあまり評価せず、むしろラマルク的な獲得形質の遺伝をベースとしていた。その背後にあったのは進化理神論である。「人間の幸福は神の意志である」「本物の宗教は科学と敵対しない、科学と敵対しているのは宗教の名を借りた迷信である」と述べている。自然も人間も社会も自然の一般法則(=神の摂理)に従って、単純で均質な状態から複雑で不均質、かつ秩序ある多様性へと発展する、というのがその主眼。「このように進歩は偶然ではなく、人間がコントロールできるものではなく、有益な必然であることがわかるだろう」。この伝統的な社会進化論を、「社会ダーウィニズム」と呼ぶのは、ランダムな変異を前提としたダーウィンに対して失礼だ。
第5の理由は、誰もが自分の主張に箔をつけるために、ダーウィンの名を借りたこと。そのため、ダーウィンの主張とは相容れない神学を背景にするもの、ラマルク的なもの、誤った自然選択説などにまでダーウィンの名が冠され、それがダーウィン本来の理論の理解を妨げた。
「したがって多くの歴史家は、19世紀にはいわゆる「ダーウィン革命」に相当する出来事は起きていないと総括している。ダーウィンが提唱した進化論が当時の社会や思想を変革したとか、方向性のない進化の考え、あるいは自然選択説で当時の常識を覆した、という証拠はない。ダーウィン進化論の提唱と受容の過程は非常に複雑で、それ以前の考えに巻き込まれつつ、また誤解されつつ、部分的に進んだものであり、それを相対性理論や量子力学で語られるようなパラダイムシフトと同様な例とみなすのは不適切である。
結局のところ社会にとっての進化論とは、すでに定着していた自然と社会の進歩的変遷の見方を言い換えたものであり、それまでの自然と社会を支配する融通無碍な一般法則、つまり神の摂理を、科学に基づく自然法則で置き換えたものであった。別の言い方をするなら、神の代役ーー「科学」による正当化が、「ダーウィンによれば……」である」
第6の理由は、よくダーウィンの発言として引用される「最も強い者が生き残るのではない。最も賢い者が残るのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」は、ダーウィン自身の言葉ではなく、経営学者のメギンソンが誤って引用したものだという。だが、このメギンソンの引用も、ロシアのアナーキスト、ピョートル・クロポトキンの著書『相互扶助論』に影響された可能性があるという。
「彼(ダーウィン)」はこう示唆している。この場合の最適者とは、肉体的に最も強い者でもなく、最も狡猾な者でもない。共同体の福祉のために、強い者も弱い者も等しく互いに支え合うよう連携することを知る者である」
人口の少ないロシアで、限られた食糧をめぐり闘争が継続するという考えは非現実的で、闘争よりも相互扶助のほうが重要だと考えていたクロポトキンにとって、ダーウィンの「生存闘争」という言葉は共生や協調行動を含むものであって、ダーウィンの進化論は、助け合い、倫理、共感、道徳的な行動からなる相互扶助をもとにしている、と思い込むのはむしろ自然だった。もともと、上のクロポトキンの言葉は、「最も強く、最も迅速で、最も狡猾な者が、次の日の戦いのために生き残る」としたハクスリーに対する反論だったという。生物の世界を相互扶助とみたクロポトキンと、闘争とみたハクスリーは相容れない存在で、クロポトキンは生物も人間社会も共通の原理が働き、生物の世界も道徳・倫理に従うと考え、ハクスリーは生物の進化を人間社会に当てはめてはならないと考え、道徳・倫理も人間社会だけのものだと考えていたが、驚くべきことに、両者は、自分こそがダーウィンのことを一番わかっていると思い込んでいたというのだ。「彼らはどちらも自説の正当化に、「ダーウィンの呪い」を利用していた」。
誰もがダーウィンの中に自分の見たいものを見、それをダーウィンの思想だと言いふらす。まったく迷惑千万な話だが、当のダーウィン自身、版を重ねるごとにブレが生じているため、そうした誤解を受けたともいえる。まったく一筋縄ではいかない話だ。「ネオ・ダーウィニズム」も「純粋ダーウィニズム」も「本家ダーウィニズム」も「元祖ダーウィニズム」も「真ダーウィニズム」もくそったれ。
ゲノム編集で人類の進化をコントロールし、人類を改良したり、人類以後の種に進化させたりして、現在の人間がもつ能力の限界を超えた超人をつくりだすトランスヒューマニズムは、倫理的に問題視されているが、見方を変えれば、人類が長年にわたって行ってきた植物の栽培種や家畜、ペットに対して施してきた人為選択(目的のあるセレクション)を、人間に対して行うだけともいえる。肯定派の生命倫理学者ジュリアン・サヴァレスキュは、
「遺伝的な改変による人間の能力の強化は、単に許されるだけではない。強化すべきである。自分自身や自分の子供の能力を遺伝的に強化する倫理的、道徳的な理由が存在する」
「子供を賢くし、共感力や自制心を育むために効果的な環境に置くのと、子供に薬を与えるのと、子供の脳や遺伝子を直接変えるのと、倫理的な違いはない、つまり環境的な介入と遺伝的な介入の間には、倫理的な違いはない」「生物学的な改善策と環境的な改善策に違いがなく、幸福になるための生物学的操作が倫理的である以上、本人の利益になり、合理的で安全であり、最高の人生を送る機会を増やし、不当な不平等や差別が避けられるなら遺伝的強化も、トランスヒューマニズムも人類にとって義務だ」
目標も方向もなかった生物進化に、幸福という目標が与えられたら……。現代の優生思想は、国家による共生ではなく、個人の自由意志で現実化する。だが、そうやって人為的に選択された遺伝子は、いざというときのバックアップのために不可欠だったバッファ(つまり無駄)を排除することにならないだろうか。遺伝子プールの多様性が損なわれることは、長期的に見れば、生存にとってマイナスになることは明白なのに。
ダーウィンのいとこフランシス・ゴルトンは、『天才と遺伝』の中で「生まれか育ちか」を統計的手法を使って論じた。ダーウィンのすすめでスイートピーの交配実験を行い、親の種子が極端に大きければ子の種子はそれより小さくなるという「平均への回帰」を発見する。
「ここでゴルトンは、ダーウィンが想定していた、小さな変化を経て漸進的に進化が起きる、という考えに疑問を抱く。小さな変化では、回帰による拮抗作用に打ち消されてしまう、と考えたのである。集団の遺伝的性質は安定に保たれる傾向があり、小さな変化が起きても元に戻ってしまうが、ある程度大きな変化が起きれば、回帰の効果を乗り越えて、新しい安定な状態に移行するのかもしれないーーそう考えたゴルトンは、進化が大きくて不連続的な変化のステップを踏んで行われるはずだ、と主張した。
この着想がその後の自然選択をめぐる大論争に発展する。
現在、私たちが日々何気なく使っている回帰や回帰直線という統計用語は、もとは進化と遺伝様式についての用語であり、その発見と誤解は進化生物学上の歴史的な論争の発火点であった」
ウィリアム・ベイトソンはゴルトンから大突然変異による跳躍的な進化の可能性というアイデアを受け取り、不連続的な進化の実例探しに奔走する。遺伝学、対立遺伝子、ホモ接合体、ヘテロ接合体などを命名したのはベイトソン。一方、ウォルター・ウェルドンはゴルトンから統計的手法による自然選択と変異の分析、変異と血縁の相関というアイデアを受け取り、何百匹というカニ集団が二つのタイプに分かれることを、平均の異なる二つの正規分布を明らかにすることで証明、自然選択のために徐々に二つの種に分化しつつあるとした。大突然変異と飛躍的な変化のベイトソンと、自然選択と連続的な変化のウェルドンはやがて袂を分かち、ウェルドン陣営には、数学者・統計学者のカール・ピアソンがついた。ヒストグラム、統計的仮説検定、相関・回帰分析、分布の当てはめ、多変量解析、重回帰分析などはピアソンの考案によるものだ。
1900年にメンデルの遺伝法則が再発見されると、ベイトソンは自説を支持する強力な証拠が得られたとして、仲間(サンダースやバネット)とともに一躍攻勢に出た。ベイトソン、サンダース、バネットらの「メンデル派」と、ウェルドン、ピアソンらの「生物測定学派」の対立は、1904年の英国科学振興協会・動物学部会の会合で頂点に達した。
「ベイトソンを中心とするメンデル派の考えでは、大きな変化を生じる突然変異によって進化が不連続的に起きる。自然選択の働きに創造的な作用はなく、有害な性質を除去して変化を止めるのに役立つだけであった。連続的で小さな変異は遺伝しないか、遺伝してもノイズのようなもので、進化には関与しないと考えていた。この考えを確かめる手段が、遺伝や生理、発生の実験である。観察された進化の結果と、それをもたらした要因の因果関係を実験で突き止めねばならない、と信じていた。
これに対し、ウェルドンとピアソンの考えでは、常時ランダムに供給される遺伝的変異のため、集団にはわずかな差を持つ多数の連続的な変異が蓄積し、それに対して自然選択が作用する結果、徐々に連続的な進化が起きる。血縁との相関は連続的な変異が遺伝することを示していた。ウェルドンは進化とその要因の因果関係を実験で調べることを軽視していたわけではなかったが、生物系はあまりに複雑で多様性に富み、実験から因果関係を解明できるほど理解は進んでおらず、それゆえ統計解析で得られた現象の経験的な傾向だけが、推測の妥当さの根拠となる、という立場だった。
一方、ピアソンの考えは、もっと極端だった。生物の複雑な系では、そもそも厳密な因果関係を追求するのは不可能かつ不毛だ、と考えていたのである。1892年に出版した『科学の文法』でピアソンは、科学から形而上学的な思索を徹底的に排除すべきだとしたうえで、科学的方法は本質的に記述であり、科学法則は、現象に関する我々の思考を数学で単純化することだ、と説いている。(中略)
ピアソンにとって、すべての自然法則は数式であった。彼が変異の分布に当てはめた曲線や、形質間あるいは世代間で検出した相関と法則性は、進化を説明するための手段ではなく、説明された進化そのものであった。彼は論文にこう記している。「もしそれが何らかの遺伝的性質と相関するならば(中略)進化の真の原因を持っている、と言ってよい」
科学観は異なるものの、生物学が追求すべきは、観測データの記述であり、遺伝メカニズムを調べて因果関係を探ることではない、という点でウェルドンとピアソンは一致していた。この点でも生物測定学派は、ベイトソンらメンデル派と相容れない立場であった」
「結局、彼らが歩み寄ることはなかったっものの、メンデル派と生物測定学派が本当は一連の仕組み、一連の現象の違う側面を見ている可能性をほのめかすいくつもの証拠が見つかり始めていた」
「なぜ潜性(劣勢)の対立遺伝子が集団から消滅しないのか不思議に思ったバネットが、趣味のクリケット仲間の数学者、ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディに相談したのがきっかけで、ハーディが集団の対立遺伝子の頻度に関する重要なルールを導いたのである。有性生殖を行う十分大きな集団の遺伝子プールで自由な交配が行われる場合、(自然選択や突然変異がなければ)対立遺伝子および遺伝子型の頻度は一定に保たれる、という原則である。同時期に同じ発見をした別の発見者の名もとり、ハーディ・ワインベルク則(平衡)と呼ばれる。
こうして常に連続的に供給される変異を考えなくても、突然変異による変異の供給と、メンデル遺伝による仕組みで連続的な変異を説明し、その進化を自然選択で説明できる道具がそろったのである。生物学を二分した闘いは収束に向け、舞台が整いつつあった」
「変異の起源を分析するには、変異の尺度として標準偏差の二乗を用いるのが望ましい。この量を、対象とする正規母集団の分散と呼ぶことにする」で始まるロナルド・フィッシャーの1916年の論文がそれである。
「集団の変異量を測る尺度としてフィッシャーが導入したのは分散(個々の値とそれらの平均値の差を二乗し平均したもの)だった。遺伝子座がひとつの場合、各遺伝子型を閉める同じ対立遺伝子の数(0、1、2)と、頻度で重み付けた各遺伝子型が示す表現型値の関係を線形回帰で記述すると、表現型のばらつき(分散)に及ぼす対立遺伝子の効果は、回帰係数で表現できる。この回帰と分散を使ったアイデアにより、二つの対立遺伝子からなる最も単純な一遺伝子座で支配される形質から、多数の遺伝子座で支配される連続的な形質まで、変異を同じ尺度とルールで記述できるようになった。
身長などの変異の分散は、遺伝的要因(生まれ)による成分(遺伝分散)と環境要因(育ち)による成分(環境分散)に分割できた。つまり生まれと育ちの効果を区別できるようになったのだ。また、遺伝分散は各対立遺伝子の効果を足し合わせた効果による分散と、顕性(優勢)、潜性(劣勢)などの効果による分散に分割することができた。変異と血縁との相関もこれらの成分の組み合わせで示したのである。
この論文で発表した理論をもとに、フィッシャーは次に、自然選択の効果を定式化した。不連続な形質から連続的な形質まで、突然変異で遺伝子プールに供給される遺伝的変異に対する効果として、自然選択を位置づけた。こうして自然選択を様々な条件でメンデル遺伝の仕組みや突然変異の効果と矛盾なく結びつけて説明するのに成功したのである」
「そして1930年、一連の成果を著書『自然選択の遺伝学的理論』に発表し、自然選択とメンデル遺伝、突然変異の完全な理論的統合を成し遂げた。それに加えて同じ理論的枠組みで、ダーウィンが着想した性選択による進化の説明にも成功した。まさに現代進化学を導いた金字塔ともいうべき著作であった。
この理論を中核として20世紀半ば、先述のドブジャンスキーやホールデン、ジュリアン・ハクスリー(トマス・ハクスリーの孫)らの主導で、現代に続く進化学の体型が成立する。これを進化の総合説と名付けたのは、J.ハクスリーであった」
「ここに至る道を整理しよう。出発点のダーウィンは、ギリシャ時代以来の進化観のうえに、自然選択による無方向の枝分かれ進化という独自の着想を加え、マルサスなどの社会思想やそれまでの生物学の知識を統合して、自然主義科学のもとに進化論を構想した。ダーウィンから天啓を受けたゴルトンはヴァイスマンと同じく、進化論からラマルク説を切り離し、自然選択説による定量的な実証科学へと導いた。その遺産を引き継ぐ二つのグループ、かたやピアソンとウェルドンの生物測定学派は、統計学による変異と自然選択の記述、それに血縁の遺伝法則を洗練させ、かたやベイトソンのメンデル学派は、実験的手法により進化の遺伝学的基礎を構築し、メンデル遺伝と突然変異による進化を唱えた。
これに対して、スペンサーが広めたネオ・ラマルキズムは米国で隆盛となり、オズボーンの定向進化は一世を風靡したものの、ダヴェンポートが発展させた実験遺伝学はラマルク流進化を否定した。そしてフィッシャーが生物測定学とメンデル学派の統合に成功し、築かれた現代進化学の基礎のうえに、ドブジャンスキーが実験遺伝学とジョーダンの自然史研究に基づく種分化説を融合し、現代進化学の体系が成立する。それにJ.ハクスリーが進化の総合説と命名し、その後の分子生物学の発展を経て現代に至るのである」
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