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今日は晴れると聞いてたのに、夜明け前から断続的に降られ、最後は雨がフーディニジャケットやグローブをしっとりと湿らせ、体温を奪うまでに。さすがにちょっと寒かった💦
#雨ラン #シャワーラン #朝ラン #早朝ラン #ランニング
オーディブルは小田雅久仁『残月記』の続き。
「月景石」の続き。すべての命の源である大月桂樹が地球から月へ、月から地球へと旅立つときには、木の言葉がわかる樹言の石をもつイシダキ、異界と月世界を夢で結び、異界からまだ見ぬイシダキを連れて来る異界夢の石をもつイシダキ、旅立ちの石をもつイシダキがそろわなければならない。若くしてこの世を去った桂子(ケイコグレヌ)は樹言の力をもち、桂子を月世界に連れて来たナオヤ(ナオヤムエレ)は異界夢の力をもっていたが、旅立ちの石をもつ者は現れなかった。澄香(スミカドゥミ)は異界夢の力をもち、樹言の力をもつユウアヌイアを月世界へと連れてきたが、彼女が連れてきたのは、それだけではなかった。サイトウ? なぜここでサイトウ? 旅立ちの石はラピュタの飛行石を思わせるが、それにしてもサイトウが旅立ちの石のイシダキだって??? ううむ、なんだかすっきりしない。よりによって斎藤だとか……
「残月記」は満月になると生命力がマシマシになり、新月になると極端に弱って一定の確率で死に至る月昂者(それは狼男を思わせる)の物語。
「わたしは十歳のときに月昂を発症しました。近ごろはもう、月昂者にならなかった人生を思い描くこともありません。月昂者にならなかった、幸福だったかもしれないわたしは、もはや他人です。月昂者にならなければ、詩も書かなかったし、絵描きにもならなかったでしょう。でも、明月期の月昂者の身に溢れかえる躁病的な創造性は、つねにその何倍もの代償を支払って得られるものです。わたしは二十年を超える療養所での暮らしのなかで、それをずっと見てきました。もっとも、創造性とはそもそもそういうものなんでしょうね。その創造性が本物であればあるほど引きあわない。幸福を得るよすがとはならない。きっと真の創造性は灯台のようなもので、まわりを照らすものではあっても、本人を照らすものではないのでしょう」
「三年ほど前、悪くないと思えるものをいくつか二代目に進呈すると、二代目は「俺よりよっぽど達者やな」と褒めてくれた。しかし「これなんか巧すぎるな」と皮肉っぽく付け加えることも忘れなかった。二代目の言うとおりだった。たしかに巧くはなったが、器用さで素材を彫り負かそうとする嫌らしさが出てきつつあった。こんな具合にしてみようと思い描き、その通りのものができあがってしまうつまらなさ。手慣れれば手慣れるほど、発想の凡庸さが浮き彫りになる。そんなこんなで、この一年ばかりは面白いものが彫れなくなり、小刀に伸びる手も滞りがちになっていた。彫る過程で自分のなかにないものが作品に入りこまなければ、そもそも彫る意味などあるだろうか」
わかる。あることに習熟すると、手癖がついて、考えなくても半ば自動的にあるレベル以上の作品を生み出せるようになる。でも、それって、本当に意味があることなんだろうか。こっちは発見の楽しみ、知らないことを知る喜びを味わいたくてやっているのに、全部自分でわかっていることをダダ漏れするようにアウトプットして、仮にそれが商売になったとしても、それのどこが楽しいのか。クリエイターの業というか欲深さ、際限のない高望みは、それ自体が創作の動機であり、目的でもあったりするから、ややこしい。でも、そんな自分が決して嫌いじゃないというところもあって、ホントに救いがたい(苦笑
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