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そろそろ河津桜🌸の季節かなということで、西郷山公園と桜神宮を見てきた。西郷山公園の高台のど真ん中にぽつりと1本だけあった河津桜🌸は、去年は園内の土壌整備工事の柵に取り囲まれ、どうなることかと思ったけど、今年も無事咲いていた。が、公園に到着した時点でまだ薄暗く、とくにライトアップもされていないため、いい写真は撮れなかった。桜神宮の河津桜🌸は今週末から来週あたりが見頃だろうか。
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オーディブルは宮内悠介の短編集『盤上の夜』を今朝から聞き始める。
「盤上の夜」より。四肢を失った灰原由宇にとって、碁盤と碁石こそが手であり、足であり、その手足が感じる感覚(触覚)を言語化するために、外国語を片っ端から勉強した。痛い、痒い、熱い、固い……といった感覚を表す言葉が、日本語だけでは全然足りなかったからだ。視覚情報を表す言葉は無数にあっても、感覚(触覚)を表す言葉は数がかなり限られる。
「英語では、明るい青も暗い青も、基本的にはブルーと呼ぶ。ところがロシア語では、明るい青と暗い青とを呼び分ける。必然的に、近くできる青色の種類は増えてくる。そこで由宇は、世界各国の触覚に関する単語を集め、自分のなかに蓄えていった。強くなるため、言葉を殖やしていく」
映画「メッセージ」の原作、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」で知ったサピア=ウォーク仮説がここで登場する。「人は、言葉を通して現実を見る。現実が、言葉を規定するのではない。−−言語ことが、現実を規定する」例として。
「いいえ」「そのような大層なものではありません。あくまで、言語と近くは確かに関係しているらしい、というそれだけの話です」
「語彙はすぐに足りなくなりました。同じ五感であっても、視覚や聴覚の幅広さに比べて、触覚をめぐる単語はプリミティブなものが多い。言語をまたいでも、それほど大きな差が得られないのです。まして、彼女が表現しようとしていたのは、囲碁の触覚という、言ってみれば人類未到の領域だった。痛い、痒い、熱い、固い、……彼女が本来触覚を通して感じとりたかったのは、こうした定型句の向こう側にあるものだった。まもなく、由宇は自分自身で言語を考えるようになりました。しかし、それは辛く苦しい作業でした。言語とは、本来は他者と共有するものだからです。ところが、彼女がやろうとしていたことは、本質的に、誰とも共有できない領域の言語化だった」
「発狂するまでつづける人間など、稀なのです」
「人間の王」より。40年間ほぼ無敗のチェッカーチャンピオン、マリオン・ティンズリーをシェーファーがつくったプログラム「シヌーク」が破り(ティンズリーから見て4勝2敗33分け)、その15年後にはチェッカーの完全解(両者が最善を尽くせば必ず引き分けになる)まで発見して、チェッカーというゲームそのものが葬り去られてしまった。そのとき、ティンズリーは何を思ったか。われわれみなにとって意味のあるこの問いの答えを求めて、主人公は、ティンズリーの生涯を学習したAI(シンギュラリティ後の世界という設定)と対話する。AIはティンズリーを「彼」と呼んだ。
強すぎて、人間との対戦ではもはや、新発見の驚きも未踏の地に足を踏み入れる興奮も命を燃やしている実感も得られなくなっていた「人間の王」ティンズリーは、世界チャンピオンのタイトルを返上してまでシヌークとの対戦を渇望した。
「シヌークとの勝負では、まるで若者に戻ったかのような気分だった」
「わたしは人間だ」「シヌークと比べて、よりよいプログラマを得たにすぎない。神が、わたしに論理的思考を与えたもうた」
後者のセリフは、AIの解釈では「自分という存在のプログラマは神なのだから、負けはない」という意味だという。人間と機械とが勝負しているわけじゃなく、プレイヤーとプログラマとの戦いだという意味で。
「まずはお詫びをさせてください。なぜなら、ティンズリーの没後にチェッカーの完全解が出されたことについて、「彼にとっては、幸せなことだった」とあなたは言いました。わたしも、おそらくはそうであろうと考えていました。
ですから、チェッカーの完全解が出されたいまになって、あなたを再現したことは、あなたにとっては不幸なことです。それを承知で、わたしはあなたをお呼び立てしました」
「いいえ、それについては、むしろ感謝してさえいます。
知っているということと、目の当たりにするということは別だとわたしは言いました。本質的には同じでも、個人の体験として見ると、それらはやはり異なる事象なのだと。そしていま実際、こうして歴史を突きつけられるのは、わたしにとって一つの困難です。
ですが、それでも、わたしは感謝したいと思うのです。
ティンズリーがチェッカーを指しつづけたことに、意味はないとわたしは言いました。また、業ではないかとも言いました。あるいは、老いとの戦いだったとも言いました。そうしたいっさいを抜きにして−−数学者であることを抜きにして、プレイヤーであることを抜きにして、そしてまたクリスチャンであることを抜きにして−−わたしたちは、見たいと思っていたからです。
うまく伝えられないのですが……ティンズリーとは、勝ちつづけた人間です。そして、いつでも勝者でありたいと思っていました。しかしそれと同時に、それと同じくらい、チェッカーの完全解が導かれる瞬間を、見たいと思ってもいたのです。チェッカーというゲームが葬り去られる瞬間を、わたしたちは待ってさえいたのです。このことはうまく表現できません。しかし一つの実感として、確かにそうであったと言えるのです。
わたしはいま、ある種の感動すら覚えています。知っているということと、目の当たりにするということは、個人の体験として見るとやはり異なるのです」
「あなたは半世紀近くを人間の王として君臨し、そして機械にも勝ち、機械のリベンジさえ退けました。ですがいま、チェッカーというゲームも、もはやありません。
この世界を、あなたならば、今後どのように生きていくでしょう?
そうです−−これは、わたしたち全員が抱える問題なのです。〈人間の王〉たるあなたに敬意を払い、〈人間の王〉たるあなたに期待を寄せ、お伺いします。このような寄る辺のない世界で、わたしたちは、どう生きていけばよいのでしょうか?」
「(前略)たとえばチェッカーを捨て、あるいは「彼」の両親のように、警官や教師として生きていく道はあるでしょうか。これなどは、ありうる話だとわたしは思います。ですが、少なくともわたしには、この考えは採用できません。戦うことを知ってしまった人間、挑戦することを知ってしまった人間が、それを捨てられるとは、到底思えないからです。
であれば−−自分の戦いの物語に終止符を打つ。あるいは、老いとともに敗れ去る−−それが一番、まっとうな筋道のように思えます。ですが、「彼」は老いるほどに強くなった、規格外とも言える人間です。彼は一種、まっとうさの対局にいた。しかも「彼」について言うならば−−戦いのさなか、ゲームそのものが消え失せてしまった。
「彼」には、戦いに終止符を打つすべがないのです!
わたしは、シェーファーをうらやましく思うことがあります。彼は、彼の戦いに終止符を打ったわけですから。しかし、「彼」については、そうはいかない。いわば、山のない世界を生きる登山家、海のない世界を生きるダイバーです。
そう、これは難問です。
それでは、チェッカーで難問にあたったとき、わたしたちはどうするでしょうか。
わたしたちは、相手側の立場に立って考えてみます。この問題について、わたしはシヌークの側に立って考えてみました。
シヌークというプログラムもやはり、言ってみればわたしたちと同様に、チェッカーの完全解という来たるべき圧倒的な事実を前に、無意味とも言える戦いをくりひろげた存在です。−−それでは、シヌークはいったい何と戦っていたのか?
このことを、わたしはずっと考えてきたのです。
むろん、シヌークはチェッカーのためにのみ作られたプログラムです。そこに、なんらかの意識や知性、主体があるとはわたしも考えません。また、あえて擬人化しようとも思いません。ただ、一つの抽象的な問いとして、わたしは考えてみたのです。
シヌークとは、なぜ生まれてきたのか、と……。
しかしこのことは、なるべくなら、語りたくはないのです。
なぜなら、この問いは、ある一つの帰結を生むからです。ある、自明ですらある帰結を……(中略)
よろしいですか。
わたしは、このような結論に至ったのです。
シヌークが戦うべき相手は、彼を作りたもうたプログラマであると。
むろん、これは一種の比喩、アナロジーです。それを承知の上で、わたしはこれを自分に置き換えて考えてみました。つまり、わたしが戦うべき相手は、……」
ダメ。絶対。怖い怖い。
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