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すっきりしない天気が続く。気温が低く抑えられてる影響で、染井吉野の花が長持ちしているのか、雨に祟られて散ってしまうのか、あるいは気温が上がらず残りの花が開花することなく葉桜に移行してしまうのか。二ヶ領用水宿河原の桜並木🌸は好きで毎年見ているが、生命力にあふれた満開の勢いとはほど遠く、このあともっとマシマシになっていくのか、それともこのまま収束に向かうのか、予断を許さない。
#雨ラン #雨中ラン #シャワーラン #花見ラン #咲くラン #染井吉野 #朝ラン #早朝ラン #ランニング
オーディブルは金重明『「複雑系」入門』が今朝でおしまい。
第5章「カオスの縁」より。
クリストファー・ラングトンの人工生命研究。
「従来の生物学は、大成功を収め近代文明の基礎を築いた近代のパラダイム(還元論)にのっとって進められていた。つまり生物を種、生物体、器官、組織、細胞、細胞小器官、さらには分子に分解することによって理解しようという方向だ。
人工生命はそれとは正反対の方向へ進む。単純な部品から組み立てた人工のシステムに生命に似た振る舞いをさせ、そこから生命を理解しようという方向だ。生命は物質に依存しているのではなく、その組織化の過程に特性がある、とラングトンは考えていた。つまり、40億年前にたまたま地球で発生した、炭素を中心とする特殊な化学的現象だけが生命ではない、という考えだ。
従来の生物学は、トップダウン・アプローチによって生命を解明しようとする。精密な機械を設計するときのように、生命を再構成するというわけだ。そのためには、当然のことながら、システムについてのすべての情報をあらかじめ知っておく必要がある。しかしシステムが複雑になれば、組み合わせの爆発のようなことが起こり、トップダウン・アプローチではそれ以上進むことができなくなる。
人工生命は、ボトムアップ・アプローチを採用する。そこでは、自己組織化や創発というような概念が鍵となる。
創発とは、個々の要素が互いに影響を及ぼしあって、事前に予測できない思いもかけない現象を引き起こすことだ。複雑系の科学の中心となる概念だ」
スティーブン・ウルフラムの1次元(直線上の)セル・オートマトン。左右2つずつ、合計4個のセルの状態によって中央のセルの運命が決まるルール。→結果は、4つのクラスに類別される。①クラスⅠ:時刻1か2にはすべて白になってしまう「死の世界」。②クラスⅡ:しばらくすると、動きのない黒のセルの塊と、周期的な振動をする物体だけになる(ライフゲームでいえば固定物体と振動子だけの世界)。③クラスⅢ:手を付けられないほど過激な運動をくり返す「カオス」。④クラスⅣ:クラスⅡの秩序とも、クラスⅢの混沌とも異なる世界。激しく活動するが一貫性があり、構造物が増殖し、成長していく。また分裂と合体を繰り返しなががさらに精巧な構造物ができたりする。ライフゲームと同じく「チューリング完全」のセル・オートマトン。クラスⅠとⅡは秩序領域、クラスⅢはカオス領域とすると、クラスⅣは?
ラングドンはさまざまなパラメータを用いて1次元セル・オートマトンを走らせ、実験を繰り返し、λ(ラムダ)と名付けられた単純極まりないパラメータ(各セルが次の時刻で生き残る確率)を発見する。
「λの魔法の臨界値付近にクラスⅣを生み出す規則が集まっていたのだ。そして、あのライフゲームのλの値もまた、ちょうどその臨界値の中央にあったのである。
λの値が臨界値より小さければ、クラスⅠやクラスⅡの秩序状態になり、臨界値付近のごく狭い範囲であればクラスⅣという芸術的ともいえる創造の領域となる。そして臨界値を超えると、クラスⅢのカオス状態になる。
これはまさに、氷が水に変わるときのような相転移だった。
氷が水になる、あるいは水が氷になる相転移の瞬間、あの雪の結晶のような芸術的ともいえる創造の領域が生まれることはよく知られている。ラングトンはこのアナロジーを力学系一般へと拡張した。
クラスⅠとクラスⅡ ⇔ クラスⅣ ⇔ クラスⅢ
固体(氷) ⇔ 相転移 ⇔ 流体(水)
秩序 ⇔ 複雑性 ⇔ カオス
このクラスⅣ=相転移=複雑性の瞬間は現在、「カオスの縁」と呼ばれている」 ワオ!
複雑系の科学の梁山泊サンタフェ研究所について、マイケル・クライトン『ロスト・ワールド−−ジュラシック・パーク2』より引用。
「サンタフェ研究所は、カオス理論の応用に興味を持つ科学者グループにより、1980年代なかばに設立された。所属する科学者たちの専門分野は、物理学、経済学、生物学、コンピュータ・サイエンスと、多方面にわたる。メンバーに共通するのは、世界の複雑さの下には潜在的な秩序構造がひそんでいるという考えかただ。彼らによれば、いままで科学が見落としていたそれを暴きだしたものこそは、カオス理論−−いまでは〝複雑性(コンプレキシティ)の理論〟として発展した理論にほかならない。ある科学者のことばを借りるなら、複雑性の理論は〝21世紀の科学〟なのである。
研究所が調査してきた複雑なシステムのふるまいは、膨大な数におよぶ。市場における企業のふるまい、ヒトの脳におけるニューロンの活動、細胞に見られる酵素のカスケード系、渡り鳥の集団行動−−いずれも複雑すぎて、コンピュータの出現以前には研究しようがなかったシステムばかりだ。この研究はまだ新しく、その発見は驚異に満ち満ちている。
そして、複雑なシステムにはいろいろと共通するふるまいが見られる。科学者たちがそれに気づくのに長くはかからなかった。そこで彼らは、それらのふるまいが、あらゆる複雑なシステムに特徴的なものであると考えはじめた。システムの部分部分を分析することではそれらを説明しえないことにも気がついた。歴史によって検証された還元主義という科学的アプローチは−−たとえば、時計の仕組みを知るために分解してみるという方法は−−相手が複雑なシステムの場合、どこにもたどりつけない。なぜなら、興味深いふるまいというものは、各構成部分の自発的な相互作用によって引き起こされるらしいからである。そういったふるまいは、計画的なものでも指示されてなされるものでもない。自発的に発生する。そこから、このようなふるまいを〝自己組織化〟と呼ぶ」
「複雑なシステムは、われわれが〝カオスの縁〟と呼ぶところに身を置きたがる。われわれが想像するカオスの縁とは、生きているシステムが活力を維持できる程度には革新性を宿しつつ、まとまりを失って無秩序に陥らない程度には安定性を維持する場所だ。それは闘争と変革の場であり、そこでは新旧双方がたえず戦いをくりひろげている。生きているシステムがカオスの縁に近づきすぎれば、縁からころげ落ちて散逸、分解してしまう危険がある。その逆に、カオスの縁から離れすぎればシステムは硬直し、硬化し、画一化してしまう。どちらの状態も、その先に待つのは絶滅だ。多すぎる変化は少なすぎる変化とおなじくらい害をなす。ただカオスの縁においてのみ、複雑なシステムは繁栄しうるんだ」
第6章「生命」より。
シュレーディンガーの『生命とは何か』は、遺伝子は非周期的に並ぶ巨大分子であり、その中に生物が必要とするすべての情報が含まれているとして、DNAの存在を予言したが、前半はよくても、後半は間違っていた。遺伝子は設計図であって、生命活動をすべてコントロールするものではなかった。とはいえ、シュレーディンガーのこの小冊子に影響を受けた物理学徒が大挙して生命科学の門を叩くことになった。DNAの二重らせん構造を明らかにしたクリックとワトソンも、そうした男たちの一員だった。
「DNAがタンパク質を合成するための暗号であることを見出し、その暗号を解読した。そしてその暗号から、タンパク質を合成するメカニズム(セントラづドグマ)をあきらかにした。さらに、それらの作業を調節するシステムを解明したのである。
あと一歩で、生命の秘密があきらかになる。多くの科学者はそう確信した。
科学者たちは生物を、きわめて精巧な機械のようなものだと考えていた。生命の活動を葬式するのがDNAだ。細胞内では、DNAの指揮に従って、あらゆる細胞小器官、あらゆる分子が整然と活動している、というのが科学者たちが描いた生命のイメージだった。
科学者たちは、当時普及しはじめていたIBMのコンピュータがプログラムを実行していくように、DNAというコントロールタワーが一歩一歩指令を実行していると考えていた。その精緻なプログラムは、自然選択によってデバッグされているので、完全無欠なはずだった。
科学者たちは、その精緻な生化学的メカニズムをひとつひとつ解明していこうと努力した」
「しかし、さらに深く調べていくと、さまざまな疑問が浮かび上がってきた。
たとえば、タンパク質を合成するセントラルドグマの過程も、当初考えていたような単純なものではなかった。
暗号をコピーしおえたmRNAがDNAを離れると、さまざまなタンパク質がmRNAに取りつき、切り離したりくっつけたりという再編集がおこなわれる。これをRNAスプライシングというが、何を切り捨て、どこをつなぐかというのは一定ではなく、細胞の種類や状態によって異なっている。
そして、この過程をDNAが統制しているわけではない。
つまり、DNAを調べただけでは、どのようなタンパク質がつくられるのか、はっきりしないのだ。
また、核外に飛び出したmRNAがリボソームにたどりつくまでに、さまざまなタンパク質やRNAの破片がまとわりつき、ときにはmRNAを破壊してしまったりする。まるでトマス・ホッブスの言う、万人の万人に対する闘争のようなありさまで、そこに秩序のようなものを見出すのは困難だった。
無事にリボソームにたどりつき、タンパク質の合成に成功したとしても、できあがったタンパク質はそのまま何かの働きをするわけではない。他のタンパク質と結合してさらに巨大なタンパク質となったり、あるいはアロステリック効果によって当初考えていたのとはまったく異なる機能を果たすこともある。そしてこれらの過程もまた、DNAが統制しているわけではないのだ。
そもそも、生命のはじまり、受精卵の段階で、DNAが中心になって発生が実現する、という仮説は否定されてしまう。DNAだけでは何もできないのだ。
精子はほぼDNAの塊なので、父親から受け継がれるのはDNAだけだと考えられる。受精卵の中にあるさまざまな細胞小器官、RNAや脂質、メチル基、アセチル基などの有機物はすべて母親から受け継がれたものだ。これらの細胞内物質がDNAに働きかけることによって、はじめて発生がはじまるのである」
「DNAは生命のコントロールタワーではなかった。遺伝子がDNAである、という言明も正確ではない。少なくとも、シュレーディンガーの言う遺伝子−−生物が必要とするすべての情報が含まれている物質−−ではないことは確実だった。DNAがすべてを決定しているわけではないからだ」
「調べていけばいくほど、謎は深まるばかりだった。細胞の中に、全体を統制しているコントロールタワーのような部分は見つからなかった。精緻でありかつ完全無欠であるはずのプログラムなどは、どこにもなかった。ひとつひとつの物質が、てんでんばらばらに、それぞれ勝手に動き回っているようにしか見えなかった。秩序などはどこにもない。混沌としか言いようのない騒然としたありさまに、科学者たちは口をあんぐりとあけてあきれ返るばかりだった。
しかし、そこにあるのは混沌ではなかった。
そこにあるのは豊かないのちだった。
これをどう理解したらよいのだろうか」
スチュワート・カウフマンの登場。
「DNAには膨大な量の遺伝子が存在する。また、それぞれの遺伝子は互いに深く影響しあっている。遺伝子Aのスイッチをオンにすれば、ただちに遺伝子B、遺伝子C、……が影響を受けるのだ。
当時の科学者は、スイッチのオン/オフをひとつずつ順々に処理していく、つまりコンピュータのような逐次処理がおこなわれていると考えていた。そのためには想像を絶する精緻なプログラムが必要となってくる。
それは不可能だ、とカウフマンは考えた。ランダムにおこなわれる試行錯誤と自然選択では、そのような精緻なプログラムができるはずはない。そこにはもっと根源的な、自己組織化のような秩序があるはずだと考えた。(中略)
まず、スイッチのオン/オフの処理はコンピュータのような逐次処理ではなく、多くのスイッチを並行して処理していくものに違いないと考えた。そこで、おびただしい数の遺伝子のスイッチをでたらめにつないだらどうなるか、を考えはじめた。カウフマンは、ランダム・ネットワークという新しい数学をはじめたのである」
「まずわかったことは、遺伝子のつながりが密であれば、ネットワークは手の施しようのない混乱に陥るということだった。逆に遺伝子のつながりが疎である場合、たとえばある遺伝子のスイッチのオン/オフを決定する遺伝子がちょうど2個の場合。そのネットワークはいくつかの定常サイクルに落ち着いてくることもあきらかになった。しかし遺伝子のつながりがさらに疎になると、ネットワークは何の面白みもない状態に固定されてしまうのである。
ある遺伝子のオン/オフが他の2つの遺伝子の影響を受ける、つまり遺伝子のつながりを2とした場合、おもしろいことが判明した。定常サイクルの数が、遺伝子の数の平方根とほぼ一致したのである」
「カウフマンは図書館へ行き、現実の生物のデータを調べた。そして、非常に興味深い発見をした。
生物の細胞の種類は、その生物の遺伝子の数の平方根にほぼ等しかったのである」
「彼はそこ(サンタフェ研究所)で、学部生のときに発見した遺伝子ネットワークの調和が、まさにカオスの縁で起こった創発であったことを知る。
遺伝子間の連携が密であれば、遺伝子ネットワークはやたらと興奮して、構造物のようなものができてもすぐに壊れてしまうカオス状態になる。また遺伝子間の連携があまりに疎であれば、面白みのない固定的な秩序状態になる。その中間、カオスと秩序の状態の間に、芸術的ともいえる創造の瞬間がある。それがカオスの縁だったのだ。
さらにカウフマンの発見は、細胞がカオスの縁で活動していることを強く示唆する結果だった」
カウフマンは、生命の起源はDNAやRNAのような複雑な分子ではなく、アミノ酸やヌクレオチドなどの基本的な分子がネットワークをつくったことにあると考えた。「材料となるアミノ酸やヌクレオチドは原始のスープの中に豊富にあったと考えられる。それらがランダムに反応して重合体をつくる、というのは十分ありうるシナリオだが、自然の状態ではそれほど頻繁に起こることではなく、役に立ちそうな高分子ができあがるまでどれほど待てばいいのか、見当もつかない」
「いま、原始のスープの中にあった分子が触媒としてはたらいて、Bという分子をせっせと生産しているとしたらどうだろうか。そしてそのBという分子が、別の反応の触媒としてはたらき、Cという分子をつくり出し、そしてまたCという分子が……、というようなネットワークができるのではないか」
「原始のスープの中で生成されるA、B、C、……などの分子は、ランダムグラフの点と考えられる。そして、それらの反応がランダムグラフの線だ。A、B、C、……などの分子が増えていくと、明らかに反応の種類は増えていく。反応の種類の増え方は分子の増え方より速いのだ。つまり、ランダムグラフの中で点が増えていけば、線はさらに増えていく。とすれば早晩、エルデシュ=レーニの定理により相転移が起こるはずだ。
カオスの縁である。
そこに創発が起こり、巨大な自己触媒ネットワークが生まれるのだ。
原始のスープの中で、百年河清を俟つように、巨大なDNAやRNAが生まれるのを待つ必要はない。原子のスープの中の分子たちの相互作用が、カオスの縁で創発を起こすのだ。
この自己触媒ネットワークが新しい分子を生み出していくさまは、「生きている」と表現することができるはずだ。
神が命を吹き込んだのではない。
魔法の種は、カオスの縁であり、双発なのだ」
「コンピュータ上のシミュレーションでは、原始のスープの中で相転移が起こり、カオスの縁で生命誕生の創発が起こることは確認されている。しかし、実験室では成功していない。
もし実験室でそれが実現したら、地球がひっくり返るような大騒ぎになるはずだ。何しろ40億年ほど前に地球上のどこかで一度起こったのはほぼ確実だが(生命の起源は宇宙のどこかだ、という説もあるが……)、それ以後は一度も確認されたことのない事件なのだ。
しかし複雑系の科学にもとづくシミュレーションはかなり信憑性があり、その線にのっとった実験が日々おこなわれている。もしかしたらわたしの目の黒いうちに、実験室で生命誕生、というニュースを聞くことができるかもしれない」
観測しうる宇宙に存在している原始の数は10の80乗とされる。一方、生命圏を形成している分子の数は、それとは比較にならないほど多い。たとえば、300個のアミノ酸が並んだタンパク質が何種類あるかというと、20種類のアミノ酸が300濃並ぶ並び方は20の300乗通り、つまりほぼ10の390乗通りある。ということは、この宇宙ができてから毎秒1回ずつ長さ300のタンパク質をつくったとしても、できあがったタンパク質の種類は、10の17乗個にしかならない。つまり、生成されたタンパク質の種類は、存在しうるタンパク質のうちのほぼ0%にすぎないことになる。原子の世界では、存在しうるものはすべて存在しているが、生物圏で存在しうる分子のほとんどんは、いまだにこの宇宙に出現していないことになる。
おこりうることはすべて起こるという家庭を「エルゴード仮説」という。物理学はエルゴード仮説が成り立つ世界だけを追求してきたが、生命を形作る複雑な分子は、あきらかに非エルゴード的だ。生物も物質的な存在であり、物理学の法則に支配されているが、生物圏は非エルゴード的なのだ。生命は物理学に従うと同時に、物理学を超えているともいえる。
「生物が生息しうる環境をニッチという。生物は自分のためのニッチを見つけ出してそこに住み着く。そして必然的に、そこに他の生物のためのニッチを生み出していく」
「最初にそこ(原始地球の不毛な大地)をニッチとした生物は、おそらく細菌の一種だったと思われるが、その生物が新たなニッチを生み出し、その新しいニッチに積みついた生物がさらに新しいニッチをつくり出していく。数十億年にわたるその繰り返しの結果、不毛の大地は命にあふれる緑豊かな森林となった。現在の森林は、空間のどこを切り取っても、ある生物種のニッチでない部分はない」
「次々とニッチを広げながら進化していく性粒権というのは、「血塗られた牙と鉤爪」という進化とはまた違ったイメージをわたしたちにあたえてくれる。
生物はひとりで生きているのではない。生物どうしの複雑な関係、複雑系の中で生きている。そして、この複雑系のダイナミズムが、適応度地形を変えてしまうのだ」
「生物が新たなニッチを生み出し、そこに別の生物が生息する、というのはまさに、生物圏における創発だ。ここに既存の数学が登場する余地はない。どのような生物が新たに積むつくことになるのかを表現する方程式は存在しない。つまり、この双発は事前に言い当てることが不可能なのだ。
創発の結果を演繹する法則は存在しない。カウフマンはこのことを、含意ある法則がない、と表現している。演繹的な法則がないのだから、わたしたちにできるのは、それを物語ることだけなのだ。
すべてを事前に記述することができない非エルゴード的宇宙では、物語、つまり歴史が問題となるのである。
また、Aはという生物がつくりだしたニッチにBという生物が生息するようになったとしても、Aの存在がBの生息の原因であると言うことはできない。Aの存在からBの生息を演繹する方程式が存在しないからだ。Aがつくりだしたニッチに生息できる生物は、Bとは限らない。C、D、……という生物たちもそこに生息できたはずだ。結果的にBがそこに生息するようになったのは、偶然の結果にすぎない。
カウフマンはこの状況を「可能化」という言葉で表現している。つまり、Aの存在がBの生息を可能化した、というわけだ。
可能化は、演繹の言葉ではなく、歴史の言葉だ。どのような形で可能化が起こるかを事前に言い当てることは不可能であり、可能化が起こったときに、それを歴史として語ることができるだけだ。」
そろばんは計算道具として発明されたが、スケートボードの代わりにもなるし、武器にも、焚き木の燃料にもなる。そろばんの使用法をすべて事前に書き記すことはできない。
「生物の進化の大半は、そろばんをスケートボードとして使うというような形で進んでいく。これを外適応、あるいは前適応と呼んでいる。つまり、ある理由によって自然選択された器官が、その理由とはまったく異なる理由によってさらに自然選択され、当初の使用法からは想像もできないかたちに進化していくことだ。
たとえば鳥の羽毛はほぼ確実に、体温を保つために進化した。しかしいまは、空を飛ぶ道具として使われている。
進化の方向を演繹する法則がないので、こんなことが起こるのだ。既存の数学では進化を表現することはできない。進化の方程式は存在しない。進化を含意する法則はないのである。
進化はすべて、行き当たりばったりの応急処置の連続なのだ。そこに計画性や、遠い未来への配慮などはない」
「熱力学の第二法則は、閉じられた系ではエントロピーは一定のままか増大する、と主張する。しかし生物は閉じられた系ではない。生物は光子の自由エネルギーという低エントロピーを取り入れることで、エントロピー増大による崩壊を免れているのだ。葉緑素は光子の自由エネルギーをブドウ糖の中に閉じ込める。それを摂取することで、生物はエントロピーを減少させているのである」
「熱力学の第二法則はエルゴード仮説を前提としている。熱力学の第二法則だけでなく、ニュートンの運動法則から、相対性原理、量子力学にいたるまで、すべての物理学はエルゴード仮説が成り立つ世界で成立する理論だ。
原子の世界はおおむねエルゴード的だが、分子の世界は非エルゴード的だと前に指摘した。この宇宙には存在したくてたまらないのだがまだ存在していない分子がたくさんある。したがってそれらを含む相空間のすべてを渡り歩くことなど不可能だ。
細胞の中のネットワークも非エルゴード的であり、進化する生物圏も非エルゴード的である。
細胞や生物圏のような非エルゴード的な世界には、熱力学の三法則を超える、第四の法則があるのではないか、とカウフマンは予想する。
細胞はさまざまな分子や細胞内小器官が並行的に作用するネットワークであり、生物圏もさまざまな種の生物が並行的に作用するネットワークだ。このように、多くの要素が並行的に作用するネットワークを複雑系という。
複雑系では、すべての要素が他のすべての要素に影響を与え、同時に他のすべての要素から影響を受けている。したがって、その環境の中にあるすべては、本質的に固定されていない。現状を維持するためにも、活動を続けなければならない。
『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王が言うとおり、「同じ場所にいたいと思ったら、精いっぱい走り続け」なければならないのである。」
第7章「掲載・歴史・社会」より。
「イノベーションを起こすのは、ものではなくアイディアだ。ものが盗まれればなくなってしまうが、アイディアは盗まれてもなくなりはしない。むしろアイディアの伝播は、イノベーションの伝播につながる」
「アイディアは伝播していくだけではない。組み合わされ、生物のように増殖していく」
「アイディアはものやサービスとなり、商品として流通する。経済ネットワークが築かれるのだ。そして商品は経済ネットワークの中でみずからのニッチを築いていく。もとより商品は生物ではない。しかし人間がアイディアを生み出し、商品を生産していくことによって、商品はあたまも生物であるかのように進化していく。
ひとつの商品はみずからのニッチを築くと同時に、他の商品のニッチを可能化していく」
「このように、商品による経済ネットワークは、新たなニッチを次々と可能化していくことによって、生物のように進化していく。太古の地球の赤茶けた大地が緑あふれる森林になったように、数種の石器や土器という貧相な経済ネットワークは、数億、あるいはそれ以上の商品やサービスにあふれる現代社会へと進化してきたのである。
商品による経済ネットワークは、商品どうしを補完物、あるいは代替物という関係で結んでいく。ネジに対してネジまわしは補完物だ。そして釘は代替物だと言えよう。あるいは接着剤なども代替物だと言えるかもしれない。商品を点、保管物や代替物との関係を線と考えよう。点が増加すれば、線がそれ以上に増加していく。エルデシュ=レーニの定理により早晩、臨界点が訪れ、相転移が起こる。そこで新たなアイディアの結合が起こり、新しい商品が誕生していく。
商品による経済ネットワークもまた、複雑系なのだ。
事前予測不可能な方向に隣接可能療育を拡大していく。その進化を含意する法則は存在しない」
「おわりに」より。
「歴史の後知恵によって、歴史の流れを必然であるかのように解釈することに対しては、昔から戸惑いを感じていた。
歴史の勝者を先見の明のある賢人として描くことにも、嘘っぽさを感じていた。そのおうに描けばたしかに物語としてはおもしろくなるけれども、それはまがいものだと思っていた。
トルストイが『戦争と平和』のなかで「歴史家たちは、世界のさまざまな事件の自由意志のない道具のうちで、もっとも奴隷的で、自由意志のない人々である指揮官たちの先見の明や、天才性を証明する証拠を巧妙にこしらえ上げて、生じた事実にそれをあとになって当てはめている。
古代の人たちは、英雄叙事詩の典型を我々に残した。そのなかでは英雄が歴史の興味のすべてを形作っている」と述べているが、この見解に諸手をあげて賛同する。
複雑系の科学を知ると同時にそれに魅せられた背景には、そのようなわたしの性向があったと思う。」
この独白を読んで、急に作者が身近に感じられた。自分自身、学生のときに、自分の思考はすべて、自分がしてしまったこと、あるいはしないですませてしまったことに対する言い訳、後付け似すぎないとある日突然気づき、それ以来、そんな無意味なことのために自分の脳を使うのはやめようと決めたのだ。後付けならばなんとでもいえる。だが、本当に、事前にそうとわかっていたのか。そんはずはないし、あとから振り返ればそう見えるというだけのことなのだ。先々のことまで見通せる、なんていうのは、たいていはまやかしだ。予想が当たることはあるかもしれないが、それは「たまたま」であって、それ以上のものではない。自分が進化論が好きなのも、逆にインテリジェントデザインが嫌いなのもまったく同じ理由だ。たまたまの連続でいまがある。誰かが用意した道をただ歩むのでもなく、あらかじめ行き先を知っているわけでもない。それでも前進し続ければ、いろいろな偶然が重なって、自分が通ってきた跡を振り返ると、そこに道があるように見える。それが自分のキャリアパスであり、自分の人生なのだ。先々のことを完璧に予測するすべなどない。だから、おもしろいんじゃないかと思う。
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