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#朝ラン #早朝ラン #ランニング
オーディブルは松永K三蔵『バリ山行』が今朝でおしまい。
波多は気づいていないようだが、長いものに巻かれない妻鹿にいらだち、傾きつつある会社の行く末などどこ吹く風で、自由気ままに行動しているように見える妻鹿のやりかたに反発し、糾弾し、最後には暴発までしてしまうのは、波多自身が大人になりきれていないからだ。波多は生活の糧のみならず、住まいも(波多は社宅住まい)、人間関係も(前職で社内のつきあいをおろそかにしたせいで人員整理の対象となった波多は、気が向かないと愚痴をこぼしながらも、会社の苦境に対して自分たちでは何もできず、愚痴を言うしかない集団と群れることをみずから選んだ)、休日の趣味も(社内サークルの登山部でいつものメンバーと六甲山に登るのが唯一の趣味)、生きがいも(波多にとって山はあくまで遊びで、仕事や会社、それを含んだ街での生活こそが生活の中心だと自己暗示をかけている)、すべて会社におんぶにだっこで、自分が会社や会社の人間に依存しているという自覚がまるでない。自立できていないのは、会社や組織の代弁者のふりをして、自分(たち)の価値観を他者に押し付け、自分(たち)と同じようにすることを相手に強いる自分のほうなのに、会社によりかかることなく、いつでも会社を辞める覚悟のできた「真の大人」の妻鹿を「子ども扱い」して勝手に憤り、一方的に正義をふりかざす。
だがそれは、波多の考える「正しさ」でしかなく、妻鹿には妻鹿の、他者には他者の「正しさ」があることに気づいていないのは、波多のほうなのだ。妻鹿にはそれがわかっているから、自分の考えを波多に押し付けたりはしない。そこに踏み込まないのは、相手が自分と違うことを受け入れ、その存在をリスペクトしているからで、妻鹿の言動にからっ風のような気持ちよさ、潔さが感じられるとしたら、それはそれぞれ「自立した個=大人」同士のコミュニケーションだという前提があるからだ。
妻鹿を変人扱いして笑う社内の連中も、妻鹿の勝手なふるまいに腹を立てる波多自身も、自分たちが「仲良しこよしの内輪世界」に安住したまま年齢だけ重ねたお子さまだという自覚がない。自覚がないから、自分たちと違うといって平気で同調圧力を持ち出し、そのギャップをなくそうとする。違うやつが紛れ込むと、自分たちの安住の地が乱されたような気がするから。子どもは他者との境界があいまいで、自分が感じることは相手も当然、同じように感じると思っている。しかし、自我が育ってくると、自分と他人の違いが徐々にはっきりしてきて、共依存ともいうべき関係から少しずつ距離を取れるようになる。
大人になればわかることだが、そもそも他者が自分の思いどおりになると考えること自体が傲慢なのであって、人はそれぞれ違って当たり前。その前提に立てば、仲間とつるまないからといって文句を言う筋合いなどないし、会社が潰れるかもしれないという不安を共有できないからといって、相手につらく当たることがどんなに理不尽なことかがわかるだろう。それはあたかも駄々をこねる子どもの言い訳のようなものであって、自立し、違いを認めあった大人同士なら、そうした問題は起きないはずだ。
会社が危ないと群れて騒いでいた連中は結局何もできなかったが、妻鹿は自分のすべきことをした。その結果、会社と喧嘩別れすることになったとしても、それはたぶん織り込み済みで、妻鹿は自分の足で生きていくだろう。妻鹿が生きているのは、他人が敷いたレールの上を唯々諾々と歩いているだけの人には、一生たどり着けないような世界だ。波多の幼稚なふるまいが頭にくるが、それもあわせて、一気に聞かせて(読ませて)しまう著者の力量は見事。話題の「グループ登山」問題にも一石を投じる一冊だと思う。おすすめ。
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