![]() |
![]() |
![]() |
山歩きにいで湯(温泉)はつきもの。いで湯ぬきの山歩きなどろくな山歩きになるはずもない。などと登山愛好家からの顰蹙少なからずかうべき思想を平気の平左で抱くようになったのも、横丁のご隠居みたいに言うだけ言って何もしない人種になり下がった結果からかもしれない。
たしかにその傾向大ではあるが、これは私が18歳のときの山歩きでパッと開眼した思想なのである。ずっと以前の若き日のことだ。
月日は流れ、また一度ババッとバッチリの開眼があり、それが美味い料理と美味い酒の追加参入であったたことは、人並みの成長に伴い当然の帰結。
もって生まれた軟弱な思想はさらに膨らみと深みが増し?揺るぎないものとなっていった。
いで湯に出会うまでの山歩きは、ただ闇雲に歩くというやつで、なにゆえそうしているのかの自覚などまったくもってない青臭い精神根性物語。
2万五千分の1の地図に、歩いたルートを赤鉛筆でなぞり、その赤く曲がったラインが地図上で増えていくことに妙な快感を覚えつつ、それを広げてニンマリ眺めているという変な自覚だけが唯一あった。
赤い線を増やす作業として選ばれたのが秋田と岩手の県境八幡平の山々である。暇つぶしにちょうどいいやという似た者悪友が同行する山旅であった。
八幡平の南玄関、国見温泉から入山。二泊三日のコースである。
未だ残雪の残る緑眩しい六月、当時の国見温泉は、今のように車道も通っていない“文明開化”の産声が聞こえてきた黎明時代。
1時間以上沢筋を這うように歩き湯治の宿「国見温泉」に着く。話のタネとばかりに入湯に及んだのは勿論である。
ガラッとガラスの引き戸を開けるといきなり板張りの洗い場、脇に申し訳程度の衣類棚があり湯船が二つ、間に仕切りを挟んで並んでいる。
男と女を分けているつもりでも洗い場と湯船はつながっている。
湯気煙る温泉にスッポンポンで飛び込むと先客が二名。遠目にもそのふっくらとした肉体が女性であることは明瞭だった。瞬間驚き、湯船を飛び出す純真可憐な体たらく。とても人に見せられた図ではなかったろう。
いま思えばあの混浴は惜しいことをした。状況にバタバタ慌てた18歳の男二人はやはり若かった。
なにも慌てふためくことでもなく、往時、東北各地の湯治場の混浴はごく当たり前の風景。
(激減したが今も各地に混浴文化が残っている)
湯船に浸かりながら谷の対岸の斜面が眺められる。たっぷりの湯がドドドッと勢いよく落ちている。
谷の斜面にへばりついた宿の風情といい、鄙び放題鄙びた風呂といい、湯に浸かり谷を眺めていると、山旅の疲労は瞬く間に消えてゆくのを知ったのだった。そして何とも言えぬ愉説。
温泉へ出かける大人を見て、どこがそんなにいいのかと半ば馬鹿にしていたものが、今はもうニコニコしてしまう。山歩きの後にこれほど素敵なものはないとたちまち宗旨替えになったのはむべなるかな。
以来、山歩きにいで湯の思想が私にベッタリこびりついた。
今や、いで湯が無ければ山なんかいかない、とまで言い出す過激な思想に陥っている。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する