“宝物のピッケル”とたいそうな触れ込みだが、何の興味もない人様からみればただの埃のかぶった“お邪魔虫的棒切れ”でしょうか。
部屋の壁に掲げられたピッケルは名門、札幌『門田・KADOTA』の業物である。 札幌『門田』は、知る人ぞ知る日本で初めてピッケルの製造を手掛けた名門プランド。
1986年(昭和61年)門田の匠名人、正氏が亡くなられ、正氏の死に伴い「もう今までのようなこだわりのピッケルは作れないと・・・」惜しまれつつ潔く廃業。60年以上手塩にかけて育てた店は閉じられた。
この間、匠・正氏の作成されたピッケルは5万本を超える。まさに鍛冶屋の職人技で造り上げられたピッケルである。(現・天皇陛下にも贈呈されたとお聞きする)
今の岳人は御存じないであろうが、昔のアルピニストは『門田』のピッケルを持つことは武士の刀と同じような意味合いが込められていた。(ような気がする)
即ち武士の魂ならぬ”岳人の魂“ 魂を小粋に抱え得意満面、今日は穂高、明日は剣、へと・・・。若気の至り的山行彷徨人。
私も薄給の身で門田のピッケルを購入した夜は、小学生の遠足興奮前夜の心理状態となんら変わらず、嬉しさのあまり何日も寝床のなかでピッケルを抱き込み添い寝しました。
(んなことないか)
その自慢の”業物宝物”は1970年代に製造された『サミット』(SUMMIT) ヘッド長さ28cm シャフトは北海道産「青ダモ」を使用。
購入してからというもの、日夜これでもかと木のシャフトにアマニ油を塗り、ぴかぴかに磨き、ひとりほくそ笑み、にんまり溜息吐息。過ぎ去りし淡くも懐かしいときのことだ。
永年の山行のお供で、石突きは岩肌で疵付き哀れな姿に。今では我が隠家の壁の片隅で安住の安らぎを得ている。
門田のピッケルを一躍有名にしたのは1936年(昭和11年)立教大学によるナンダコット遠征隊で門田の特殊鋼ピッケルが使用され、 さらに1956年のマナスル登頂で使われ・・・・・。
そして昭和30年代の登山ブーム。井上靖の『氷壁』が一世風靡。登山ブームを背景に札幌・門田の名声がさらに高まったときだ
門田の御先祖はもともと土佐で代々続く甲冑師を造る家柄。 昭和初期、北大の登山家にアイゼンの作成を頼まれたのが縁でピッケルの製造に。
風の便りで製造第1号のピッケルは札幌ウインタースポーツミュージアムに展示されているとお聞きする。ネパール国際山岳博物館にも堂々の展示。そして私の隠家の壁際にも展示。
ところで、今や冬山春山に限らず、長いウッドシャフトのピッケルはもう見かけませんね。今や骨董品扱い。私も今ではシャフトの短いピッケルや、二本ストックをもっぱら愛用。門田のピッケルは昔を偲ぶ自己満足、追憶の壁掛置物。
tokusandesuさん、はじめまして。
私も古いウッドシャフトのピッケルを持っています。
名品でもなんでもないTOKYO TOPの安物ではありますが、捨てられずにとってあります。
若いころは貧乏だったので、門田はおろかシモンとかシャルレのピッケルも買えず、シェンクを持っている友達が羨ましかったものです。
ある程度、登れるようになった頃は、ピッケルも荒い使い方をするのでメタルシャフトの物を愛用してましたが、老齢に入って昔をしのぶとかの境地になると、ウッドシャフトの方が気分が出ますよね。
その意味で、門田のピッケルを持っておられるのは本当に羨ましいです。
コメントり、ありがとうございます。
ピッケルも春山、冬山に限らず長い木の枝のピッケルはもう見かけませんね。
今や骨董品扱い。私も今出はい枝の短い今出はシモン製。
写真のように、今では昔を偲び自己満足追憶の壁掛置物。(笑)
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