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田)となり秋の風情を醸し出している。
今日は24日であり、既投稿「《深沢宿》の紹介」で述べた「角地蔵」の縁日である。
立ち寄りしてお参りをし、月当番よりお接待を受ける。
今日はこの「角地蔵」についてお話ししてみましょう。
地蔵堂の案内板に次のように書かれています。
「深沢の角地蔵」
深沢城の阿久沢氏や沢入松島氏ら黒川(渡良瀬川の昔の呼称)衆が太田金山の由良氏と天正7年(1579)合戦となり、戦死者を葬った所を「千人塚(又は桐生塚)」と呼んでいる。
宝暦2年(1752)正円寺28世盈仙(えいせん)が石工に地蔵を彫らせたが、不思議なことが起こるので逃げ出し、頭の所だけ四角く残ったので「角地蔵」と呼ばれるようになった。
天明2年(1782)の高山彦九郎の日記には「石工に申しつけたる価あたらて半途にて逃げたり」と書かれている。
地元では寸法違いで未完成あるため「間違い地蔵」とも呼ばれている。
案内板の側に「角地蔵の由来の碑」があります。長文になりますが転記してみます。
《角地蔵尊 由来の碑》
天正7年(1579)8月、太田金山城由良国繁公は藤生紀伊守、金谷因幡守を将として、潮の如く高津戸要害城を攻略し、更に深沢城(別名「神梅城」「阿久沢城」ともいう)の阿久沢能登守、沢入城の松島式部少輔古柏等の黒川勢にいどみかかって来た。
由良国繁は部下の無益の殺生を避けるため黒川勢の不戦降伏を計り松島淡路守を軍使として派遣をしたが丁度渡良瀬川が大雨による増水で氾濫していた。松島淡路守は水練の達人であったが心せくまま濁流に入り渡ろうとしたが、ついに馬諸とも濁流に呑まれ流されてしまい軍使としての任を果たす事が出来なかった。
その日のうちにその事が由良国繁の許に知らされたので、黒川に出陣する事になった。時に8月23日の事であった。折しも黒川方においても力及ばざる事を悟って、古柏の嫡男松島弥四郎を人質軍使として由良方に派遣したが、その時既に遅く由良勢は現地において黒川勢と激突に及んだ。
渡良瀬川をはさんで、東は由良勢が穴原に陣を敷き、西は黒川勢が神梅側に陣を敷いて、攻め太鼓も物々しく両軍一千有余人が対陣、暫くして渡良瀬の流れを越しつ越されつ揉み合ううち組み落ちる者、流れ溺れる者、生け捕られる者、手負う者入り交じり修羅場と化し、死者の数は多くして数えるべくもなかった。激戦半ばにして由良方より、和議許諾の報伝わり、敵味方の大将、何時とはなしに引け太鼓を打ち鳴らし夫夫軍を引き上げて激しい戦いは終わった。
星移り歳を過ぎる事174年、宝暦2年(1752)の正月、天台宗修法山正円寺28世盈仙(えいせん)和尚、元旦の恒例により旧本丸跡の天守閣八幡宮に勤行しての帰途不思議な光景を見た。それは新宿(あらじゅく)飯米場(はんまいば)辺りに怪火玉中天に飛散し、数千の軍勢が渓流の中で合戦してるかのような現象であった。盈仙和尚、ふと、昔の天正7年の古戦場であった事を想起し、当時の戦死者が成仏出来ずにいる事を感知、赤城山地蔵嶽地蔵尊に七日七夜勤行精進する。結願修行の朝、数百霊魂紫雲に乗じ地蔵嶽の仙境に入り怪火玉全く止む。
その歳の6月、、盈仙和尚、深沢宿を始めとして近郷の善男善女に地蔵尊のご利益を説法、一丈二尺の地蔵尊と供養碑建立の浄財を募った。和尚の真心に賛同した大勢の信者の協力により念願の地蔵尊と供養碑の完成を見たが、其の時石工の設計違いにより顔の部分が出来ず四角い顔形のまま逃げてしまったので、お名号を桐生塚角地蔵尊と命名し、善男善女を集めねんごろに開眼供養した。
三百年に及ぶ徳川の時代も幕を閉じ、激動の明治の時代を迎える。明治大正の時代も終わりを告げ昭和の時代に入る。昭和11年(1936)10月深沢の有志相集まり御堂の建設を計画、深沢地区が主となり隣接町村の方々の浄財一金二百七拾八円を募って角地蔵尊の御堂を建設した。
時は流れ風雪に耐える事50年、先人が造ってくれた御堂も老朽甚だしく、又、深沢区民の長年の懸案であった迂回路の完成開通もあって、併せるように角地蔵尊の御堂新築の気運も高まりを見せた。昭和60年(1985)3月16日の区民総会において満場一致、御堂を建設する事を決議した。同時に建設委員会を構成、建設の企画設計及び建設資金調達等各分野に亘り検討、工事の万全を期す。建設業者及び工事関係者の善意により同年9月20日御堂も立派に完成された。
昭和60年9月23日、正円寺40世鈴木正徳和尚を招き、深沢区民を始めとして来賓の方々、隣接町村の大勢の善男善女の参列を得て御堂の落慶法要を盛大に行った。
230有余年の長きに亘る深沢郷の角地蔵尊、一度祈願すれば七難即滅し、七福速やかに生じ、特に安産子育て子宝に恵まれるという。又、交通安全にも霊験新たなり。長い歳月深沢郷の霊場として区民が信仰されてきた角地蔵尊のご利益を子々孫々に伝えると共に御堂建設を記念し由来の碑を建立、長く後世に遺さんとするものである。
昭和六十二年九月二十四日 之建
深沢区民一同
毎月24日お堂を開き当番2人が参詣者のおもてなしを行っています。
近くにお越しの折はぜひお立ち寄りください。お待ちしています。
お堂は午前10時から午後3時まで開いています。
石工さんに一体何が起こったのでしょうか。でも、そのおかげで今にいたるまで霊験あらたかなお地蔵さまなのかもしれません。たんぼ(ひつじ田というのですね)の雰囲気にマッチしていますね。
山のふもとの村の言い伝えを聞くのが楽しいです。中世の合戦に関わる話も多いですよね。
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