かねてから読みたいなーと思っていた本だったが、苗場山登山の帰途、赤湯温泉に宿泊したときに置いてあり、暇に任せて読み進めた。そのときは途中までしか読めなかったので、帰宅後にamazonに注文して読んだのだった。なので読了したのはもう4ヶ月も前になるのだが、一応いろいろと書いてみる。
タイトルの通り、「雪」というものに対する、北国人のとても単純には表せない複雑な思い、それが本書の随所から滲み出てくる。
雪国の人間にとって雪というのは、まずは「厄介者」である。現代ですら雪かきを怠れば家が潰される可能性があり、雪崩の恐ろしさは誰もが知るところである。ましてや除雪車も融雪剤もダウンジャケットも無かった時代、雪というのは今以上の脅威であった。江戸時代の越後魚沼に住まう人々の、そんな雪との悪戦苦闘が詳しく綴られている。
さて、それでは当時の魚沼人にとって雪というのは何の魅力も無い単なる厄災だったのか、といえばそうではなかったらしい。花婿がいれば「雪中花水祝い」という祭りを行い、子供たちは雪のお城を作って遊ぶ。鹿や熊といった山の恵みも、雪の助けを借りて獲る。わずかな晴れ間には特産品の越後縮を雪の上に並べ日光に晒す。そして雪に閉ざされる国であるからこそ春の喜びも大きい。ある川では春に川面が一面蝶で埋め尽くされる現象が起こるという。
各項の結びにしばしば記される「かかる光景は暖国の人に見せたくぞ思はるる」というくだりも、雪国の暮らしというのがただ不便で厳しいだけのものだと思っていれば決して出てこない言葉であろう。
至極個人的な考えだが、北国人の「雪」への思いを伝える人の系譜として、本書の鈴木牧之、「雪は天からの手紙である」の言葉で有名な中谷宇吉郎、そして現代の「詩人」伊奈かっぺいの3氏を挙げたい。中谷氏の「雪」は実は未読了だが、少なくともほか2人の作品に触れると、雪国人があれほど雪に苦しめられながらも決して「雪なんが降らねばいいァんだ」とは言わない、その理由の一端がわかる。
山好きな人にとっても興味深い項がある。まずはなんといっても「苗場山」の項。これはそのものずばり苗場山への登頂記である。しかも現代のメインコースと同じ三俣から神楽ヶ峰を経由して登頂するルートを取っているので、登ったことがある人は現代の状況と比較しながら読むと面白い。他には今でも秘境として名高い秋山郷についての記述(これは牧之の別著「秋山紀行」の要約と言える内容)。
なお、本書は現代語訳ではなく、原文そのままの活字化だが、ほとんどの漢字にルビが振られており、注釈も充実しているので、高校古文程度の知識があれば(時間はかかるにしても)十分読める。挿絵も原本のまま掲載されている。
また原本は、「初編」が上中下3巻、「第二編」が4巻という構成だが、本書一冊にすべて収まっている。巻末には原本の出版経緯などを詳しく記した、10ページにわたる解説も掲載。
注釈にも触れられているが「第二編」については元々出版できるかどうかが定まっておらず、初編の好評を受けて版元の要請が出てから書いたものであり、当時の牧之は体調が優れなかったこともあってか初編に比べると「ネタ切れ」感が否めない。さらに第二編では京山人百樹(山東京山)による補筆が煩く、中には牧之による本文とも越後のこととも何ら関係の無い話が記述されており、明らかな「水増し」が図られている。
要するに「第二編」については読む価値が薄く、本書の魅力の大半は「初編」に凝縮されていると言ってもよいだろう(ただし先述の苗場山登頂記は第二編に収録されている)。
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校註 北越雪譜(鈴木牧之)
鈴木 牧之 宮 栄二 井上 慶隆 高橋 実
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