1932年〜1977年までの山のエッセイです。1918年、北山発見以来日本の登山や冒険のパイオニアです。今現在その思想は受け継がれこの本の内容も古臭さを感じません。
『若き日の修養時代を真に有効ならしめんと欲するならば、いたずらに卓上の勉強ばかりしていないで、この期において将来にまで発展さすべき健全なる心身の基調となるべきものをえるように努力してもらいたいのである。かかる点から考えても、世間一般から危険視されるような登山の範囲外にある三十山踏破のごときは、まさに中学生間に安心して登山の良風を奨励しうる一助となるべきものであり、したがってその復活とその健全なる発達とを私は希う次第である。』
1933年に書かれた「山城三十山」から引用
梅棹忠夫 著 「山をたのしむ」 山と渓谷社
梅棹は1920年生まれ 私の父と同年で親しみを感じておりました。私の学生時代にベストセラーになった「文明の生態史観」「知的生産の技術」や盲目になってからの「夜はまだあけぬか」などは読んだことがあります。また国立民族学博物館長としても有名でした。この本には京都府立一中、三高、京大の山に関する逸話が載っており興味津々のうちに読み終えました。
逸話の一部を紹介すると、1994年6月12日今西さんの記念碑の除幕式に出席した折、すでに盲目であった彼はレリーフを手で触って確かめようと『私は指で今西さんの目、鼻、口とたどった。最後に今西さんの特徴のある、ながいアゴを確認した。「今西さんのアゴはながいな ロング ロング アゴー ロング アゴー」とうたわれた、あのアゴである。』
また初代の小屋については『この小屋ができたのは一九二七年だという。スポーツ用品店の美津濃が、大阪のデパートで登山具の展示会を開催したときにこの小屋を出品した。それを今西さんや西堀栄三郎さんなどが美津濃の京都支店長のあっせんでもらいうけて、解体してここまではこんできたのである。』
また「雪山讃歌」については『もともとは三高山岳部歌である。曲はアメリカ民謡をとっているが、作詞は西堀栄三郎氏ということになっている。三高のスキー合宿のときに、みんなの合作でできたものらしい。その著作権が社団法人京都大学学士山岳会に寄贈されることになり、手続上、寄贈者の名がいるとゆうので、西堀さんが代表として名をだされたのである』
最後にAACKについて『ほんとうはドイツ語ですから、アー・アー・ツェー・カーと言うんでしょうが、わたしたちは普通、英語ふうにエー・エー・シー・ケー、アカデミック・アルパイン・クラブ・オブ・キョウト、日本語名でのちに京都大学学士山岳会と呼んでおります。』
日本山岳会京都支部 編著 「山城三十山」 ナカニシヤ出版
前半は日本山岳会京都支部の山城三十山の山行記です。
ただ、梅棹等が中学時代に書いた「山城三十山記」が抜粋されて載っているのがうれしい!
逸話は、皆子山の山行記録です。皆子山名付けの親である今西さんは、娘に「皆子」と命名しましたが、彼女曰く『じつは、私の名前は皆子ではなく、蒙子になるはずだったのです。京大病院で生まれましたが、父(今西錦司)はモウコにするつもりだったと後で聞きました。どこで皆子にかわったのでしょうね。 』また皆子さんは日本山岳会の会員番号も九七一五(皆子山の標高は九七一・五mなので)をもらいたかったとのこと。佐々保男会長時代に内諾してもらったのに、いつの間にか忘れられてしまったと残念がっていた。』
皆子山の三角点に正座する皆子さんの写真が載っている。
長男さんも「今西武奈太郎」さんて言うんですね
後半は「山城三十山」座談会 出席者は 大橋秀一郎、梅棹忠夫、斎藤惇生
川喜多二郎さんに「山城三十山」を聞くです。
興味のある方は是非ご一読を!中古本なら安く手に入りますよ
『』内は全て引用になります。
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