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●万波峠
万波は豪雪地帯で、明治中期になってようやく開墾が始まり、分教場もできた。しかし明治14年に水害、18年に豪雪で村は壊滅状態となり、その後30年代後半には無住となった。戦時中には軍が戦闘機用のブナを求めて林道の突貫工事を行ったが、終戦を迎え中断。戦後は国策の緊急開拓で数戸が入植したが、万波を巨大ダム湖にする電源開発計画が浮上し、入植者は退去を余儀なくされた。地質調査の結果、石灰岩地帯で水漏れがあるとわかり計画は大幅縮小。1950年代には自衛隊の射撃訓練場誘致も検討されたが、直線3kmの平地がなく不適地と判定された。1988年には県営農地開発で万波大根など高冷地野菜畑に変身したが、あまりに奥地で採算が取れず、長続きはしなかった。万波峠の向こうは、いわば自然と人間の古戦場であり、近代文明の夢の跡である。
●温見峠
古来、越前から美濃、あるいは鎌倉を結ぶ最短ルート。油坂峠と同様、戦国時代は朝倉勢や織田勢の攻防の舞台となった。江戸初期には福井藩が、約4km北の這法師峠とともに関所を設けた。その後、幕末から近代にかけての濃越往来は這法師峠越えが主で、幕末の水戸天狗党・武田耕雲斎一行約800人も雪中、この峠を越えた。1974年、県によって温見峠越えの自動車道が開削され、翌年には国道に昇格。間道だった温見越えが本道となった。しかし1963年の三八豪雪、1965年の豪雨災害、社会の変化などによって美濃側最奥の大河原の住人は、2013年時点で一人だけとなった。越前側最奥の温見、熊河(くまのこ)、這法師峠下の秋生も廃村となっている。
●平湯峠
1978年、峠直下に平湯トンネルが開通し、旧道の峠は静けさを取り戻した。峠の頂上はかつて牧場で、岐阜国体の碑、中部山岳国立公園碑、若山牧水歌碑などが建つ。どれも峠を格付ける立派な碑ではあるが、創建時の熱意や昂揚感は感じられない。天空に波打つ飛騨山脈の稜線は悠久だが、平湯峠・安房峠という平湯街道の二大難所がトンネルで抜けられるようになり、陸の孤島だった町は一変した。
平湯は飛騨の、いや日本の縮図ともいえる。
●折越峠
大トチノキは、本巣市の根尾越波と根尾上大須を結ぶ折越林道途中の峠近くにそそり立つ。トチノキは古代から人と深く関わってきた樹木で、花からは蜂蜜を採り、実はとち餅などに加工し、木は家具や食器の材となる。越波に多くの人々が暮らしていたころは、手間をかけて栃の実のアクを抜き、香ばしいとち餅を作った。米やヒエなどが凶作の年には栃が住民を救った。山あいで生きる人たちがトチノキをあがめる理由が、そこにある。
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