先週もまた国師岳にいった。上空にジェット機がよく飛ぶ。航路でもある。
40年前のあの頃、結婚した年と同じで、日航機御巣鷹事故から40年なら、結婚生活も40年になった。しかもあの7月に結婚して、8月の夏山合宿で剱岳にいたときに、事故があった。妻は心配していたようだ。
今秩父を縦走すると、そのたびに思い出す。
何をいまさらと思うが、私よりもずっと年配者の事故だと思っていたが、4歳も年下の女優黒木瞳の同級生が亡くなったといい、当時29歳の私は、同年代の夫が亡くなり、妊娠中の妻はその後出産と、今年の読売の記事によれば、我が家と全く同じじゃないか、ただ私が死ななかっただけ。坂本九は40代だったが、20代〜40代が被害者の中心層だった。よくぞ知り合いは幸運にも誰もいなかった。あの頃東京〜大阪は新幹線だったが、その少しあとくらいのバブルでは、新幹線13000円、飛行機14000円で、よく使うようになった。因果だ。ネット予約ができる時代になった。
いまさらながら思うが、あの事故機は、雲取山から金峰山という、秩父縦走路の真上を飛んでいた。事故が発生したのは、相模湾上空という。尾翼が金属疲労で破壊して、操縦不能とは言われているが、主翼のフラップを動かすことで、いくらかの操縦はできた。
東京から大阪方面に飛び、相模湾から右旋回して陸地方面に進んだのは機長の判断であり、左だと太平洋に出る。不時着は沖に行くよりも、陸上を選んだ。
事故当時は、高度7000mとなっているが、急下降して3000mくらいに落ち着くのは、そうしないと低空気圧で、自分も含めて意識が飛ぶ。そしてとりあえずの高度にある、秩父の稜線沿いに飛ぶ。どこかで軟着陸できないか。
金峰山まで飛ぶと、目の前に甲府盆地が迫って、街を墜落に巻き込むわけにはいかなくて、右Uターンしてまた山に戻る。そして御座山上空を飛んで、また秩父に入って、三国の北から、標高1500mでついに力尽きた。計算通りの操縦と改めて思う。
三国あたりの2000mから、踏み跡をだどって、そこに行けるようだが、悪趣味すぎるから、この夏には、初めて一般のように村から、追悼した。雲取〜金峰のあの縦走の真上を、あの日夕方に彼はダッチロールの末に飛んで、たった30分くらいの出来事としても、どこかに降りるべく努力した。秩父の山は、上空1万mの彼方からも、ちょっとした目標になっていた。520人亡くなって、4人助かった。単独機事故としては、世界ワースト、記録はもう破られない。そこを歩いている自分は、40年間登山して、40年前のあの日の不幸を鎮魂している。
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