その影を見ていると、何か幻想的な気分になって来た。
ここは富士山・主杖流しと呼ばれるバリエーションルート。
1日に数千人の人が登ると言われている夏の富士山。
だがここは上下左右、どっちを見ても誰1人として人の姿は見当たらない。
広大な斜面にいるのは自分1人だけ。
まるでウソのようだ…
溶岩が冷えて固まった岩場を黙々と登り続ける。
硬い岩場は砂礫と浮石だらけの一般登山道よりも登りやすく、高度が楽に上がっていく。
でも、もし天候が急変しても、身を隠せるような場所はどこにもない。
こんな所でもし雷雨にでも遭遇したら…
そしてもしケガでもして動けなくなったら…
いや、考えるまい。
長い間、一度は登ってみたいと思っていたルートだろ!
もっと楽しく登ろうじゃないか…
そう自分に言い聞かせて登り続けて行く。
時々、砂礫の斜面を余儀なく登らねばならない場所が現れる。
そのような場所は足場が簡単に崩れて体力を消耗させられる。
来し方を振り返ると凄い高度感だ。よくこんな急斜面を登って来たものだ…
そんな事を思っていると、頭上に剣ヶ峰の測候所跡が見えて来た。
ここからが長かった。
薄い空気に息が切れ、足も思うように上がらない。
もう若い頃とは違うんだという事を実感する。
やっと剣ヶ峰に着いた時、大勢の登山者がいた。
そして一気に現実社会に引き戻されたような気がした。
でも、そこはギスギスとした下界の人間社会とはまるで違った場所だった。
そこにいる人たちはみんな笑顔で、頂上の標柱を前にして
「ありがとう!」
と言いながら、交代でカメラのシャッターを押していた。
みんな同じ苦労をして頂上に登ったという気持ち。
それが見ず知らずの人間同士の気持ちを一つにしているのだろうか。
そしてふと思った。
人は目標に向かってもがき苦しみながら前進し、やりとげた時が一番幸せなのかなと。
だから人は山に登るのかも知れない。
若い頃、青春の情熱を賭けて、高度順応の訓練で何度も登った富士山。
その時の情熱を再び思い出し、満ち足りた思いで御殿場口へと下山した。
ありがとう富士山。
また来るぜ!