字が下手な人が、構わず自分で文を書き散らすのはよい。しかし見苦しいといって他人に代筆させるのは、騒々しくてみっともない。(第三五段)
年齢五〇歳になっても上達できない芸は、捨てるべきだ。それ以上習っても見込もないし、そんな年寄りのことを笑うことができない。人々の中に交じっていても、愛嬌がなくてむしろ見苦しい。(第一五一段)
---------------------------
ふたたび『徒然草』から二段。この本の趣きは、別のところで相矛盾した言葉を述べているところにある。そのどちらも一面では正しく、また一面ではまちがっているということだ。ものごとには多面的な見方があって正解は相対的なものなのだ、という智恵を読み取ることが、この日本の古典を読むときの面白さである。
ことわざに、「下手の横好き」がある。最初の段は、このことわざのような人物を微笑ましく捉えている。一方後の段は、年を取っても「下手の横好き」である人物はじつに迷惑である、と批判的に捉えている。
自分が苦手な分野をあきらめて、他人に丸投げするのは、分業の視点である。分業は、市場から見れば完成品を作るのが先であって、みっともない自作のプロセスを市場に見せるわけにはいかない、という点で正解である。しかし、分業をすることによって、その人の経験を積んで成長できる分野は、うんと狭くなる。人間として、それは自分の広がりをなくしてしまう道でもある。徒然草は、下手でも人間としての広がりがあるならば、それのほうが好ましいと言うのであろう。
下手でも自分で試みることは、自分ひとりで完結するならばそれでよい。しかしながら、趣味が他の人を巻き込むとき、自分の年齢が「圧」を生むことに無自覚であることは、愛嬌がなく見苦しいことだ。若者の馬鹿は、まだ若いからと笑うこともできる。だが年寄りの馬鹿は、もう笑える理由が立たない。他人に気遣わせておいて笑えないならば、もうやめておけ、というのが徒然草の忠告である。
私もまた、「下手の横好き」で去年から山に登り始めた。そして、もういい歳である。徒然草の言葉を、両方とも心しておきたい。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する