ある人が射術を習っていたとき、二本の矢を携えて的に向かった。弓矢の師が言った、「(本来射術は早矢・乙矢の二本で行うきまりであるが)初心者は、二本の矢を持ってはいけない。二本目の矢をたよりにして、一本目の矢をなおざりにする心が起こる。この矢は成功するか失敗するか、とかを考えてしまうのがいけない。ただこの一矢しかないと心に決めて、かかりなさい」と。そもそも、二本しか矢がないのである。しかも弓矢の師の前で、そのうち一本はどうでもよいなどと思うはずもあるまい。だが本人には油断の心はないと思っていても、師には見えているものである。このいましめは、万事にわたるものだ。
(徒然草 第九二段)
ある人が、法然上人に「念仏修行をしているとき、睡魔に襲われてつい修行を怠ってしまいます。どうすればこの障害を取り除くことができるでしょうか?」と聞いた。上人は、「目が覚めたら、そのときまた念仏なさいませ」と答えられた。じつに気高いことだ。
(同、第三九段)
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『徒然草』から、再び相矛盾する二つの段を取り上げてみた。何かに打ち込もうとしている人へのアドバイスが、射術の師と法然上人とで違ったことを言っているようだ。
気のゆるみがあってはならぬ、一日ですら修行をおろそかにしては負けだというぐらいの気迫で、日々気を引き締めてかかるぐらいであるべきなのだろうか。それとも、気がゆるんでしまって中断するのはそもそも人の常なのであるから、中断しても気に病まずにまたやる気が出たときに再開するぐらいがよいのだろうか。
だが射術の修行と念仏の修行とでは、一つの決定的に違う点がある。
射術の修行は、上達したという結果が目に見えてわかる。目的にどれだけ近づいたかどうかを、人の目で判定することができる。だから、初心者のステージでは気を引き締めすぎるぐらいに厳しい姿勢で鍛錬して、的に当てて当たり前となってからはじめて次のステージに進むことができる。師のアドバイスは、まちがっていないだろう。
いっぽう念仏の修行は、どれだけ念仏を唱えたら極楽浄土に往生できるのか、それは誰にもわからない。深い教義の中に立ち入ることはしないが、念仏は何万回唱えたら必ず極楽浄土に往生できる、という基準があるものではない。百万遍念仏という修行もあるくらいで、それこそ臨終の間際まで唱え続けなければいけないかもしれない。しかし悪人正機という言葉もあって、仏はそんなケチくさい執念など気にせず誰でも救済してくれるかもしれない。人それぞれが、人それぞれの信心をもって行う一生の仕事というべきものである。
結局、射術の師は、達成のためのアドバイスを与えたのであって、いっぽう法然上人は、継続のためのアドバイスを与えたと考えることができるだろうか。
明確な目的を達成するためには、できるかぎり日々の全神経を目的のために集中して怠らず、一定の時間内で結果を出すべきである。オリンピックのアスリートへのアドバイスは、結果を出させるために厳しく行うであろう。
いっぽう明確な目的があるのではなくてライフワークとしての仕事を身に着けるためには、急ぐことはかえって有害であるかもしれず、むしろあせらず根気よくモチベーションを保ち続けることが大事である。スポーツや技芸をずっと続けるためのアドバイスは、そう仕向けるように優しく行うであろう。
山登りというスポーツの目標も、人それぞれであろう。目的達成のためにずんずん進むのもよし、レクリエーションのために長く断続的に行うのもよし。その両者で、モチベーションの保ち方は変わってくることであろう。私じしんは、できれば後者の道で続ける者でありたいと思う。
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