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2017年08月21日 21:50未分類全体に公開

もう一つの遭難…秘話

24才の夏・・・ちょうどお盆の日でした。
新米教師の始まりの年でもありました。

滝は探しには出かけなかったのですが、独りで大峰山へふらりと登山に行ったのです。

近鉄と奈良交通のバスに揺られ 早朝に自宅を出たのに洞川の街に着いたのは、昼前でした。
当時は、新川合トンネルもなく笠木峠を越えて、細い国道309号線をバスがくねくねと上がって行きました。対向車が来るとバスは動けない状態でした。なので、近鉄下市駅から2時間はかかりました。

レンゲ坂谷の取りつきでテントを張って、侵入して来るブユやアブと闘って?いたように思います。(当時のテントは、メッシュなどなく 虫が遠慮なく入ってきます)

翌朝、そのレンゲ坂谷を上がったのですが、途中で山頂にある日本岩に突き上げる「沢」に入りました。
しかし、詰めの斜面で1mズルッと滑り、左手で枝を掴んだ所、ぐにゅっ と左肩の骨がズレたのが分かりました。左肩の脱臼です。(冬季八ヶ岳で脱臼・粉砕骨折してから癖になっていたのです)

そこから降りるよりも、日本岩に近かったので 右腕一本だけで 枝や根っこを掴んで日本岩に這い上がりました。

日本岩に体を傾け、激痛(肩を脱臼したことがある方は、あの痛みが解ると思います)で、歩けなくなりました。

どうしたの?と 登山者さんは 口々に聞きますが
「脱臼?」大丈夫 骨折とちがうから・・・
と、相手にしてくれません。

取り合えず、少しでも体を動かすと 激痛が走りますが なんとか宿坊までたどり着き、事情を話してザックだけ 預かってもらいました。
しかし、「脱臼」では、「たいへんやね」で、終わりです。

洞川の街に着いたら 救急車を呼ぼうと思い、激痛と闘いながら下山していきました。
あまりの激痛に 登山道で倒れていましたら
多くの登山者さんが 声をかけてきましたが
「脱臼?大丈夫や・・・」
と、誰も助けてくれませんでした。
大峰山は、女人禁制なので 男の世界です。
「脱臼くらいが なんなのさー!歩ける 歩ける! 根性 根性!」の世界でもありました。
ついに 激痛が酷くなり しばらくして気を失いました。
あまりの痛みに 脳が 気を失うように命じたのだと思います。

「どうしたん?」「どうしたん?」と言う声で 私は起きました。
「脱臼しました・・・」

「なに?脱臼? どこ?」
「左肩です」
彼が左肩を触ると、そこには骨がなく、骨の頭は関節を突き破って、鎖骨の下で膨らんでいたのです。
「これは、酷い・・・よく歩いてきたなぁ。とりあえず洞川まで一緒に降りよう。」と申し出てくれました。

彼の肩を借りながら、ゆっくりと降りるのですが・・・激痛でまた気が遠くなっていきました。
やっと 洞川の街に着くと 
「救急車を呼んでいただきますか?」と尋ねると
「救急車は時間がかかるから、俺の車に乗り!。」

彼は、顔が青ざめていく私を見て、車を飛ばしました。
例の細いぐにゃぐにゃ道の国道309号(酷道)の時代です。

すると突如いきなり、ガガガガガと言う音とブレーキの音がしました。
対向車が彼の車を擦ったのです。
「すみませーん」と対向車の人が 彼に謝っていましたら
「もう、ええわ、気を付けて運転してや!」
と、車より私を早く病院へ連れていくことが先決のようでした。
私は、「かなりの音がしたのですが、お車大丈夫でしょうか?」
そう言いますと
「ちょこんと 傷が入っただけや。気にせんといて」

小さな医院に着きましたが、そこでは手に負えなくて
救急病院を指定され、そこに行きました。

そこで 車の傷を確かめようと 降りた反対側を見ようとしたら
「見るな! さっ、早く 早く!」
と、整形外科専門の救急病院の入口へ連れていかれました。

医師が肩を見るなり・・
「どうして 直に連れてこなかった?脱臼は時間が経つ程整復が難しいんや」
「全身麻酔して やらなければ ダメだろう・・・」
そして、全身麻酔から目が覚めたら ベッドの上でした。

彼は、「目が覚めた?」と まだまだ付き添ってくれていたのです。
「入院しなくても良いそうやけど、麻酔をしているので神戸までは帰られへんでしょう。それに時間が時間やし・・・」
「いや、なんとか帰ります」

薄暗くなってから やっと病院を出て、駐車場に止まっている彼の車を見てしまいました・・・。
フェンダーからドアまで、ボコボコになっていました・・・

「すみません・・・」
「だから、見るなって・・・まぁ、気にせんときや!」

そして、彼は駅に向かうでなく、自分の家に連れてってくれた上、
「おーい、友達連れてきたから、今日は泊ってもらうでぇ!」と奥さんに言うのです・・・

夜食までいただき、シャワーを浴びると 真っ新な下着と浴衣が置いてありました。
「ぐっすり寝てや・・・」と
二階に案内されたら まるで旅館みたいに きれいな布団が敷いてありました。

どこの誰ぞやわからんのに・・・なんで こんなに親切なのでしょう・・・肩も痛みましたが、なんだか それを上回る 優しさに包まれてぐっすり眠ってしまいました。

朝起きると、朝食が待っていました。

「おう、肩はどない? 眠れた? 洗濯物がまだ乾かへんから、ゆっくりしていきや(笑)」の彼。奥さんが、登山で汚れた私の服まで、夜の間に洗濯をしてくれていたのです・・・。当時は「全自動乾燥機付き洗濯機」もありませんでした。

夏でしたから昼前に洗濯物も乾き、 彼は 駅まで あのボコボコになった車で 送ってくれました。
「あのうぅ・・・見も知らない私に 何故 こんな親切に?・・・」

「…あっ。これでも 俺 警察官なんよ。困ってる人を見たら 助けるのが俺の仕事やから…仕事 しごとぉー なっ。」

「…あっ、それから病院で チラッと見てしもたんや。センセーやったんやね。しかも 養護学校に勤めらてんねんなぁ・・・体の悪い子供たちとがんばっている人を 放っておけなくてなぁ・・・そういうことで、頑張りや!(^^)/」

私「・・・・・・・・・・」


それから2週間程が経ち、肩も痛まなくなりましたので、神戸名物「瓦せんべい」をお土産に、彼の家を再訪しました。
お土産は 受け取ってくれましたが、「寸志」は、かたくなに拒否されました。

ちらっと駐車場に止まっている彼の車は、まだ ボコボコでした・・・

それから、近鉄に乗り、吉野まで行きました。
洞川でなく、ザックは 標高1650mにある宿坊から ロープウェイ吉野駅下まで 運ばれていたのです。
宿坊の方から電話がかかってきて、「宿坊や下の洞川まで取りに来るのは大変やから、奥駆道を通って、吉野まで運んでいますので。。。」

宿坊がある山上ヶ岳から吉野まで 歩いて7〜8時間は かかります・・・
きっと 修験道の方が 運んでくれたのだと思います。

24才の夏・・・、またしても大峰山で 助けられました・・・。

助けてくれた警察官の彼は、もう定年退職されているでしょうね。
きっと いつまでも いつまでも 警察官としての 本当の仕事「困っている人を見たら助けるのが俺の仕事」を 続けられたのだと思います。

新米教師だった 私も
「困っているお子を見たら 助けたい…」
教師の本当の仕事を がんばりたい! と 思った ルーツでもありました。
新米教師として養護学校で勤務した3年間は、本当に教育の原点でした。

山は、自然の宝庫でもあり、厳しさも学べます。そして 色々な方たちと出会えます

私にとって 山は 学校以上の 生きた教育の場と 思っております。

心を病んだ お子達を 山の学校で 回復してもらいたい・・・

そんな 夢を 追いながら・・・現実と向かい合わなきゃならない日々が続きます・・・。
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