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「壬申の乱」最後の決戦と言われた、瀬田川の戦いに敗れた近江朝廷・大友皇子軍はちりじりになり、望みを絶たれた皇子は「山前で自害した。」と伝えられていますが、その場所が判らず不明のままです。一応、「瀬田川西岸の石山(粟津)地区で自害され、検分の為に頭部が大海人皇子の居た関ヶ原の野上行宮に届けられた後、不破の関近くの小さな山、自害峰三本杉の根元に葬られた。」というのが、一般的な通説となっています。私は中山道を歩いた際に、その伝説を知り興味が湧いて野上行宮跡と自害峰の三本杉を訪ねて来ました。いずれも、人里離れた寂しい場所でした。
しかし今日訪ねた鞍掛神社に残る伝説は、瀬田川の戦いに敗れた大友皇子は数騎の従臣と共に琵琶湖西岸の、この地まで落ち延びて来ましたが、この先の琵琶湖西岸北部を守る「三尾城」が大海人皇子軍に落ちたことを知らされました。覚悟を決めた大友皇子は馬から鞍を外して近くの柳の枝に掛け、自害されたとの事です。従臣たちは遺骸を手厚く葬って、この地に残り帰農しました。そして子孫代々受け継いで、現在までお守りしているとの事です。従臣の御子孫は、麓の衣川地区に住み全員N氏を名乗り、現在は8軒あるそうです。また天武系朝廷から天智系朝廷に戻った時には、その功績が認められて鞍掛神社として創建され庇護されるようになりました。現在も氏子はN氏の8軒だけですが、毎年7月の例祭には地元の皆さんも協力されているそうです。
各地に残る大友皇子の終焉伝説ですが、従臣の子孫が代々受け継いでお守りしてきたこの事実が、私には本当の様に思えてなりません。
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