自己責任とは「自分で考えて行動し、その結果についての責任も自分で負うこと」を意味するそうです。
一昨年に登山を始めてから、頻繁に目にするようになったこの「自己責任」について自分なりに色々考えるようになりましたが、登山の勉強をしていく中で、僕にとって最も難しくそして最も曖昧なのがこの言葉でした。
なんとなくのイメージですが、登山における自己責任論は僕のような素人にとって少しデリケートと言いますかアンタッチャブルと言いますか、安易に語ってはいけない感じがしてます。
ですが、「初心者である今だからこその考え方」もあると思いますし、この先も登山を続けるなら避けて通るべきではない!と心の声が言ってますので、今の自分にとっての自己責任について考えてみたいと思います。
山で遭難した時に、救助要請をした時点で他者が介入するので自分で責任を負えなくなる、という考え方があります。個人的にはこれが最も一般的なのではないかと思ってます。
ネットニュースの山岳遭難に対するコメントによくある「自分から危険な山に行って遭難しても自己責任だから救助要請するな」という感じでしょうか。
それと「遭難者の為に救助隊を危険に晒すな」とか「救助費用に税金を使うな、全額自己負担しろ」とか「ヘリをタクシー代わりに使うな」などの厳しい言葉もよく目にしますが、登山について何も知らなかった頃の僕も似たような事を思っていました。
その頃の僕にとっては「遭難者=自業自得」でしたので無理もありません。
勿論今は変わっていますが、少し前の自分がどう考えていたのか改めて思い返してみると、登山をする人と登山をしない人の間には、決して理解し合う事が出来ないと言っても過言ではない深い溝があり、いくら言葉で説明しても分かって貰えない事が沢山ある事に気が付きました。
僕は他人の心は分かりませんが、自分の事はよく知ってますので、登山者としての今の自分と登山をする前の昔の自分が分かり合えるのか、自己責任を絡めた会話を脳内でしてみました。
今の僕「いやー登山がこんなに楽しいとは思わなかったよ。キミもやってみれば?人生観変わるよ」
昔の自分「えっ?折角の休日にワザワザ疲れる事して何が楽しいの?それにお前みたいな素人が登山なんて危ないんじゃないの?高い所が好きならスカイツリーにでも登ってろよ」
今「登山の魅力は沢山あるけど上手く言えないなー。別に高い所が好きな訳でも無いし……ただ、危険なのは間違いないけどそれも登山の魅力の一つなんだよね」
昔「危険が魅力なのは分かるけど、お前の自己満足のために自ら危険な場所に行くなら、何があっても救助要請なんてするなよ。
もしどうしても助けて貰いたいなら無料の公的機関じゃなくてお金を払って民間救助隊に頼めよな。
日頃から国民の安全を守ってくれてる警察官をお前の為に危険に晒すんじゃねーぞ。
あと怪我しても絶対仕事を休んで会社に迷惑かけんじゃねーぞ。それが自己責任ってヤツだろ」
今「でもさー、警察に救助要請したとしても、救助隊員は救助を行うことで報酬を得ているのだから、ちゃんと税金を納めている僕としては責任を果たしていると言えなくもないし、彼らもプロフェッショナルとして二次災害を起こさない事を最優先で行動するのだからキミが思うほど危険な事はしないと思うよ。
あと、ちゃんと山岳保険にも入ってるから民間救助隊にお願いしても安心だしね」
昔「屁理屈ばっか言ってんじゃねーよ。仕事はどうすんだよ」
今「チョット強引な考え方かもしれないけど、休日に草野球や草サッカーで怪我をして休むのと山で怪我をして休むのは会社にとって結果は同じだよね。
それはあくまで僕と会社の問題だから、契約に基く減給や降格のペナルティを受けることで責任を負う事にならないかな?
いかにもキミが言いそうな『精神的苦痛を受けたから責任をとれ!』みたいな場合も慰謝料を払うことで責任を負う事が出来ないかな?キミにはビタ一文払うつもりはないけどね。
あとは、最も迷惑をかけるであろう酒好きの上司には焼酎を持参して謝罪すればモーマンタイだし、同僚や部下にはうまい棒の詰め合わせで勘弁してもらうしかないかなー。それでもゴネる人がいたら特別にカントリーマアムを1個付けるよ」
昔「カントリーマアムを付けられたら許すしかないかー。アレを嫌いな人はいないしウチの冷蔵庫にも一年中入ってるからなー……って全然納得してねーよ!
じゃあ、救助してもらっておきながら救助隊員を訴えたり、登攀中にアンカーが外れたから管理者を訴えるのは何でだよ。自己責任の欠片もねーじゃねーかよ」
今「ごめん。正直僕にも訴えた人の気持ちは分からないや。今の僕には登山者にも色々あるとしか言えないや。答えになってなくてホントごめんね。
でも、キミには想像出来ないと思うけど、山岳遭難と一言でいっても、高度な技術を持っていて経験も十分あってそれこそ山に人生をかけているような熟練者がたった一度ミスした結果の遭難と、素人がより多くの高揚感や達成感を得るためや、SNSでの承認欲求を満たすために実力に見合わない無茶な山行をした結果の遭難は、同じ遭難でも中身は全然違うんだよ。
残念ながら冬の富士山に軽装で行くようなヤツがいたり、救助隊員を訴えるヤツがいるのは認めるけど、登山者の多くは山の危険を認識し、各々で対策や準備や鍛錬をしながら山に登っているんだよ。
それでも自然が相手だし人間だからミスして遭難する事もあるけど、自分のせいで救助隊を危険に晒すことなど望んでないし、救助されれば感謝の気持ちを一生忘れないだろうし、助けてもらって当たり前なんて考えてる人は山に真摯に向き合っている人にはいないはずだよ」
昔「ふーん、そうなんだー。でも結局はお前のせいで救助隊は危険に晒されるし、その救助費用は国民の税金で払うんだし俺の払った血税がお前の為に使われるのはやっぱり納得出来ないね。
それにお前が普段どんな対策や準備や鍛錬をしてるかなんて俺には関係ないよ。
何度も言うけど、危険と分かっていてそれでも山に行きたいなら、自分が死んだ後も全て自腹で払う段取りをしてから行くとか『私が帰らなくても決して探さないで下さい』と遺書でも書いてから行けよ。それなら納得してやるよ」
今「おっと、遂に本音が出たね。結局キミは自分が汗水垂らして稼いだお金を税金で持っていかれるのが嫌なんだよね。
百歩譲って自分に還元されるような使われ方をするのは許せるけど、僕のようにやらなくても良い事を自己満足の為にやって、その尻拭いのために自分の税金が使われるのは無駄使いだと思ってるしそれが納得出来ないんだよね。
でもね、少し冷静になって世間を見てごらん。それは登山に限ったことじゃないよね。
自己満足の為に危ない事をして、結果税金を使って尻拭いをする事なんて世の中にはいっぱいあるしね。
それに、京アニの放火殺人犯のような人間でさえ、全力で救命するのが今の日本だし、人命が何より優先される現代社会の観点からすれば遭難者の救命活動に税金が使われるのも間違ってないと思うけどね。
結局放火犯の彼の治療費は税金で賄ったらしいよ」
昔「そんなの知ってるよ。てゆーか比較対象が強力過ぎるだろ。あれを許せる人は他のどんな事でも許せるような聖人君子しかいないだろ。
そもそもお前はあれに納得してんのかよ。自分は聖人君子とでも言うつもりかよ」
今「だから、僕やキミが納得するしないの問題じゃなくて、人の命は……」
このままでは何時までも平行線でキリが無いのでここらへんで止めておきますが、やはりお互い歩み寄る事は出来ませんでした。
昔の自分を説得できない今の自分にガッカリです。
昔の自分ほど極端ではありませんが、登山における自己責任については、考えれば考えるほど今の僕にはその責任を果たす事は出来ないと痛感させられます。
そして、死=責任の放棄という大前提がある以上、完全な自己責任で危険な山に行く事は不可能だと思っています。
皆さんの日記や山岳遭難の記事などを拝見しても「登山において100%の自己責任は成立しない」と大抵の方が仰ってますしね。
それでも山に行きたい僕はどうすればよいのでしょうか。
明確な答えではありませんが、完全な自己責任にはならなくても出来るだけそこに近づく努力をするしかないと思ってます。
他人に認められなくても構いません。昔の僕が言ってたように、今の僕がどれほど努力しても他人には関係ない事ですし、過程はどうであれ遭難したら同じ事ですから。
大事なのは、他人ではなく自分に恥じない事を今の僕がやれているかどうかです。
手を抜いたり誤魔化しても自分の心だけは騙せませんから。
つい「今はやらなくていいや、次回からにしよう」とか「自分は大丈夫だから必要無い」などと思いがちな弱くてズルい自分の心に打ち克ち「自分に何かあった時に周りにかける迷惑を最小限にする為に」「自分が死んだ後に周りにかける負担を最小限にする為に」そして「自分に恥じない為に」行動する事が大切なのではないでしょうか。
と言うことで、今の僕の考える自己責任とは、全ての責任を負うことは出来ないと承知しながらも、自分に恥じないように全ての責任を自分で負う覚悟を持って行動する事、としたいと思います。
ちなみに今の僕には「その覚悟を持ってるし、やるべき事は全部やっている」なんて自分に恥ずかしくてとても言えませんけどね!
自己責任って言葉を使う人ってその意味を深く考えて発言してないなと感じます。私なら自己完結って言います。自分で始めたことを自分で終わらせる最大の努力をします。シンプルでわかりやすくないですか?
こんばんは。
恥ずかしながらminislopeさんの仰る通りで、僕も登山を始めたばかりの頃、何も考えずに自己責任という言葉を使っていました。
理由は楽だからです。何せ経験が無いので自分に足りないものがあるのは承知していましたが、それが何か自分でもよく分からない、でも山には行く。
そんな自分を自己責任という言葉で正当化出来るからです。
例えるなら、未熟な自分が山に行くために自分を納得させるための免罪符のようなものでした。
幸いにも早い段階でそれは違うのではないか?と感じる事が出来たのですが、改めて自己責任について考えてみると、それは僕のような素人が簡単に口するべき言葉ではありませんでした。
自分にとっての自己責任を考え始めてからもう1年以上経ちますが、未だに正解を見つける事が出来ませんし、この先も見つけられないかもしれません。
ただ、今後も諦めずに答えを探していこうと思ってます。
minislopeさんは「自己完結」なのですね。
これはまた難しい宿題が出ましたね(笑)
minislopeさんにはシンプルで分かりやすいかもしれませんが、僕にはとても難しく感じます。
でも、これまでminislopeさんに出された宿題を解いてきた結果が僕の成長に繋がってますし、それが間違っていたと思った事は無いので、今回も自分なりの自己完結を考えてみます!
コメント有難うございました
再びの返信失礼します。
頂いたコメントを拝見した時に、確かminislopeさんの過去の日記に自己完結について書かれていたのがあったと記憶していたので、改めて拝見してきました。
おっと、何度でも言いますが、minislopeさんの過去の日記を読み漁ってるのは、憧れや共感からであって決してネットストーカーではありませんから!!!
登山に限らず何事においても自己完結出来る人は、他人に頼らず自分で考えて行動出来る人だと思います。
自己完結の定義が「自分自身の中で物事を納得したり解決したりすること」ですので、他人の意見に左右されずちゃんと自分を持っているのだと思います。
その点で、登山初心者の自分は登山と向き合ってきた時間が少なく、まだまだ皆さんの意見を参考にしてますし、自分のスタイルを確立するに至っていません。
ですので、自分には自己完結は難しいと感じました。
ですが、minislopeさんの仰っていたように、自分が未熟であることを認め、未熟なら未熟なりの行動をすることが大切ですよね。
そして、登山における自己完結=無事下山だとするならば、仰るようにこれ程シンプルで分かりやすい言葉はありません。
例え今の時点で僕の登山スタイルや考え方が定まっていなくても、その時々の山行で無事下山する為に何をするかを考えれば良いだけです。
そして「登頂出来るかどうかは関係ない」という言葉。なんだか頭を引っぱたかれた気分です(笑)
言葉ではいつも安全第一と言っておきながら、無意識のうちに登頂>無事下山になっていた気がします。
まず僕がするべき事は、何か事が起こった後にどう責任を負えば良いのかを考える事ではなく、自己完結=無事下山する為に何をすべきかを考える事ですよね。
仰るようにその時々の自分の力量を俯瞰する事が、自己完結へ近づく1つの道ですので、遠くばかり見て躓かないように足下をしっかり見ながら歩いていこうと思います。
以上が今の自分が出した宿題の答えになります。
あっ、採点はしなくて結構ですよ。ていうかしないで下さい!赤点が怖いので(笑)
自己責任の本質・理解は難しく登山者と非登山者では中々分かり合えません。
長野県の八ヶ岳の麓に住んでいるので事故があるとヘリコプターが緊急出動して、冬期は地元の小学校がヘリポートで利用されます。
登山する場合は単独・パーティー問わず山岳保険の加入と装備が必要です。技術・知識・経験があっても人間は自然には勝てません。
SNSとスマートフォンの進化により、単純に写真映えの為に興味本位で能力に合わない登山へ駆り立てられる初心者が多いです。
私は登山歴22年で1年を通して毎週山に登ります。雨でも雪でも夜間でも歩くので、他人より危機管理能力とサバイバル能力があります。登山を始めた最初の2年間は毎回遺書を書いて家族に渡していました。
ネット上では名前と顔を隠した人物が安全な場所から遭難者を攻撃しますが、山の事故を例えると下界の交通事故と同じです。
交通事故をしたら自己責任だから助ける必要はないとなり、救助隊にあたる警察・消防・病院・保険会社が助ける義務はないと同じ理屈です。
山に登らない人に山の魅力や山に登る人の気持ちは理解できません。また登山者同士でも考え方・スタイルが異なり、自分と違う考え方を持っている人間がいる事を理解する必要があります。
私は落石・滑落・熊の遭遇・雪崩を経験していますが、怪我をしても自力で下山しています。
自然にとって人間は生きてるだけで迷惑だと金八先生がTVドラマで行っていましたが、誰も山で遭難したり怪我する為に登っていないので生きて帰ろうと登頂後は毎回考えています。
しろちゃん様も安全第一で登山を楽しんでください。
今回は改めて自己責任について考える機会になりました。
長文失礼しました。
こんばんは。
まずは「改めて自己責任について考える機会になった」と言うお言葉を頂き有難うございます。
greenpowerさんのプロフィールを拝見して驚きました。僕も同じようにプロを目指してサッカーをしていました。
同じチームにいた3人はプロの道に進んだのですが、残念ながら僕にはそこまでの才能は無かったようで、高校で本格的なサッカーはやめてしまいました。
当時はなんで俺が…と悔しくて堪りませんでした。
そして挫折後の燃え尽き症候群!あれはヤバいですよね。
あれから30年近く経って最近登山に出会ったのですが、サッカーと同じくらいの熱量を持てるのはサッカーをやめてから登山が初めてでした!
そして、登山を始めてから新田次郎や夢枕獏の山岳小説を読み始めたのですが、ノンフィクションで持ってる唯一の本が丸山直樹著の「ソロ 単独登攀者山野井泰史」です!
共通点に思わず興奮してしまいました。どうもすみません(笑)
今は登山よりも大事な物があるので何とか抑えることが出来てますが、もし若い頃に登山と出会っていてサッカーと同じ情熱を注いでいたら、僕の人生はまるで違っていた自信があります(笑)
話がそれてしまいましたが、仰るように自己責任の捉え方は各々で違っていて、登山をする人としない人は勿論ですが、登山者同士でさえ違っていますよね。
それはやはり、置かれている環境や登山レベルの違いは勿論ですが登山の知識の大小により、「責任を負う」の「責任」の定義の振り幅が大きいからではないでしょうか。
これはあくまで個人的な見解ですが、最初は「ここまですれば自己責任でそれ以下は違う」という線引きをしようとしていましたが、今はそのラインが時間や経験により変わっていくのではないかと思ってます。
ですので、昔の僕の考える自己責任と今の僕の考える自己責任は違っていますが、その時の自分はそれが正解だと信じていますし、違っているのは仕方がないと思ってます。
ただ、もし登山において完全な自己責任があるとすれば、greenpowerさんが登頂後に毎回生きて帰ろうと決意しているように、何があっても山で死なずにがむしゃらに生き抜く事ではないでしょうか。
例え責任を負うような事になっても、生きてさえいればその責任を果たせる可能性は残される筈です。自分に覚悟さえあれば生涯をかけてその責任を果たすことが出来るかもしれません。
僕も長々と失礼致しました。
greenpowerさんもお気を付けて登山を楽しんで下さい。
コメント有難うございました。
返信ありがとうございます。
私は山で死ぬ場合は自分の判断ミスで死にたいと考えています。そもそも他人と歩く事がなく、どっぷり独りで山に向き合いたいからです。
今より技術・知識・経験がない30代前半に上高地〜西穂高〜奥穂高〜槍ヶ岳〜上高地を縦走した時に、大キレットで若い女性3人組と槍ヶ岳に向けて歩いていました。
その3人は「私を待ってくれない」「疲れた」「帰りたい」などずっと喧嘩をしながら歩いていて同じペースで歩く私も気分を害しました。
体力・経験値も異なり疲れた状況で他人を思いやる言動は難しく、人数が増えると計画通りに登山はできません。
私は喜び・痛み・寒さ・空腹・危険・荷物の重さも全部独りで引き受けて自分の足で歩く事に拘ります。
「危険だから」「天気が悪いから」から登らないのではなく、自分の目で見て判断します。サッカーから登山に転身しましたが、高校から登山をしていたら山岳部に入り大学・社会人で山岳会に入って海外遠征へ行っていた事でしょう。
私は危険な場面になると高揚して興味本位で突入する性格で登山でも変わりません。やはり登山から危険は切り離せないので面白いのだと思います。名前が「中山」なので山登りは使命だと考えています。
またまた長文失礼しました。
『自己責任』という言葉は『自由』とよく似ていて
受け取る人の数だけ解釈があって、如何様にでも都合よく形を変えられる言葉だと思っているので
極論、言葉自体には何の意味もないと思います。
それよりも『誰』が『何の目的』で『その言葉を発したか』が全てで
minislopeさんの仰るように特に意味もなく発せられる場合もあれば、その人の信念が乗っている場合もあり
真に見るべきは言葉の意味ではなく発した人間の在り方なのかなと。
なので言葉の表面的な意味など意に介すことなく、しろちゃんさんご自身の信念の通りに行動されるのがよろしいかと思います。
追記:自己責任という言葉、世間的には自分に都合のいいように使っている方が多い印象です。
こんにちは。
実を言いますと、自己責任の意味を考えれば考える程、その責任を負うことが出来ない事を思い知らされ、それを承知で山に行く自分に対しての嫌悪感があります。
同時に、もし山で死んだ時に、登山の知識の無い昔の僕のような考え方の人によって、残された家族が誹謗中傷を受けたり、金銭的・精神的負担をかけてしまう恐れがるかもしれないと思うと、自分が楽しむ為だけに山に行って良いのかという葛藤もあります。
ですが、それを言ってしまうと、登山でなくとも死や怪我の恐れがある趣味は全て出来なくなってしまうので、そこまで突き詰めて考える必要も無いのでは?とも思っています。
あっきーさんの仰るように、自己責任という言葉の使い方が都合よく変えられたり、個々によってその意味の受け止め方に揺らぎがあるのであれば、言葉自体に何の意味もありませんものね。
結局はそれを発した人の在り方であり、受け止める側の在り方が大事ですよね。
あっきーさんの言葉はいつも僕の心を軽くしてくれますし、いつも前を向く力にさせて貰ってます。本当に有難うございます。
登山と自分と家族の問題に関してはこの先もずっと悩み続けると思いますが、普段、物事の本質を深く考えずに何となく生きていた自分が、これ程真剣に向き合える登山に出会えたのは幸運だったと思ってます。
そして、今後も自分を成長させてくれる登山をやめるつもりはありません。
ですが、もし僕が山で死んだら、山を知らない家族や知人が山を恨む事になりかねませんので、僕の周りの人達が山を嫌いになる事だけは避けたいと思います。
コメント有難うございました。
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