ある質問で、登山道を逸脱する人や熊鈴を不用意に鳴らす人のマナー違反を注意するべきかについて書かれていた。私は、注意するべきではないという立場である。しかし、意見が一致しなく、様々な情報によりマナー違反は許せないとのことである。
重複するが、登山道か否かを問わず登山する道をどう歩くかは、法的問題がない限り自己責任である。法的問題が生じたとしても、他人が注意するべきことではない。この「自己責任」という言葉は、やや濫用された感があり、「またか」という意見もあるので、若干補足しておく。自己責任は、他人の迷惑を考えなかったり、自分さえ良ければ良いということではなく、自らの責任において物事を対処し得る状態をいう。登山道を逸脱しようとも、それは、他人に迷惑をかけない限り、自己責任である。もっとも、登山道を逸脱したことで遭難し救助された場合には、救助隊に謝罪するべきではあるが、第三者の他人がどうこういうことではないことには違いはない。また、登山道を逸脱すると自然破壊になるという意見もあるが、自然破壊をしているのは登山道でも同じであり、明らかに野草を踏み散らかしているのは別として、登山道を逸脱したから直ちに自然破壊が許されないという論理にはならない。
ところで、登山においては、マナーが重要となってくる。なるほど、山は一人で楽しむものではなく、多くの人と共有するものであるからマナーは欠かせない。これに対しては異論はない。しかし、マナーというものは、極めて曖昧で主観的であって、自己満足ともいえる性格のものである。これを他人に押し付けるのはいかがなものかと思う。特に、上述した熊鈴を不用意に鳴らす程度のマナー違反については、一々気に障るのは自分のためにもならない。注意することによって、その相手と無用なトラブルになることは、山を楽しもうとする趣旨に反するし、無駄な労力である。
繰り返すが、私は、他人の迷惑を許容しているのでもなく自己満足を追求するものでもない。しかし、登山道を逸脱することや細かいマナー違反に一々注意などの積極的行為をするメリットはないということである。これからも登山道を逸脱することはあるし、同時に山を皆さんと楽しみたいと思う。
「自然破壊」という言葉、自然界の一員である人類が云うのはおかしいですネ。人類の手で破壊された自然も、それが自然の一形態でしょう。
もしかしたら、人類滅亡後に繁栄する種族の為の環境整備なのかも知れません。
あえて云うなら自然破壊ではなく、環境破壊でしょう。
言葉の定義は厳密にはよくわかりませんが、登山道の整備も自然破壊ないし環境破壊ですね。登山道を逸脱したから直ちに濫りに破壊しているとは言い切れません。
コロナという状況で今まで山に来たことがないであろう人々が登山を楽しむようになったのも原因の一端かと思われます
昨日高尾山に行きました
ケーブルカーやリフトを使い手軽に登る事も出来、登山道保護と思われる歩き易い階段道で登山も出来る、多種多様な登り方が可能だから登りに来る人も多種多様なのでしょう
広い登山道で急に道幅が狭くなった部分に2人横並びで陣取り、何をしているかと見ればひとりは携帯で電話、もうひとりは電話終了をただ待つ
前から後ろからひっきりなしに来る人が大変そうに横を通過してもその場を動かず
2人並んで手を繋いだら人がすれ違えない幅しかない階段登山道、すれ違えないのだから前から誰かが来たら結局繋いだ手を離さざるを得ませんがその間後続者もすれ違いの相手も待機させます
登り優先とはいえ待っている相手への挨拶無しに通り過ぎる、そして通り過ぎる本人達は気付いていないが延々続く登りの列になす術なく待つことしか出来ぬ下山者
山だから憤るのかもしれませんが、これが街中ならどうなのか?
街中と山の中、マナー違反と思しき方々はおそらく普段の行動パターンをそのまま山の中でも続けているだけなのだろうと思いました
私自身、相手を注意した事はありません
但し通過時にお互いの安全の為声を掛ける事はあります
かつて「愚行権」という言葉を聞いた事があります
eclatさんが仰るところの「自己責任」に近い言葉だと感じます
「愚行権」は簡略化して言えば、他人に被害を及ぼさぬ限り何をしようと自由である、ということだったと思います
相手の行動や考え方を自分の行動や考え方に引き寄せようとする行為は「愚行権」の主旨からすると逸脱行為だと思われます
では相手の行動を全て許諾する、若しくは見なかった事にするのか?
このように問われても私は明確な答えを持っていません
その時々で考え、その時の事情で最良と思われる判断を下すでしょう
はっきりと白黒着けたくなる時はありますがそれは必ずしも最良の手段ではないのでは?と感じるようになったのは年齢を重ねたからかもしれません
登山道を遮るような明らかな迷惑行為については、毅然と注意した方が良いでしょう。
私は、マナーの重要性を理解している上で、自己責任の範疇においては他人が干渉しないことに越したことはないと思います。しかし、いくら自己責任といっても、他人の迷惑になる行為は慎まなければなりません。何でも自由という考えではありません。
山の世界は、持ちつ持たれつ。お互い様です。気分良く過ごすためのある程度のマナー、配慮は必要だと思います。
先ほどの返信に補足します。
「愚行権」という言葉について調べました。法律家である私としては、とても興味深い言葉でした。そこで、この愚行権に対して、「パターナリズム」という言葉があります。これは、御存知かもしれませんが、「父権的干渉」という意味であり、愚行権が飲酒やギャンブルなど他人の権利侵害にならなければ許されることに対して、本人や社会秩序のために積極的に干渉し行為を正すというものです。ちょうど私が言いたかったのは、この愚行権とパターナリズムの塩梅を見てバランスの取れた行動がふさわしいということです。すなわち、自己責任による自由とマナーの規制が調和していれば、問題はないといえるでしょう。
登山道を塞ぐ様に見える2人の登山者は正にその一番歩き易い箇所に立っていました
周りに避けて通れるスペースありと思ってそこを陣取っていたのかもしれませんが、少なくとも私には楽にすれ違える箇所とは思えませんでした
しかしそのまま横を通過した理由は、私に勇気が無いからです
正論であっても相手の出方によっては難しい対応を迫られるかもしれませんが男性2名を相手に上手く対応出来る能力が私には無いと思います
ただ、先にも書いた通り、相手にも自分にも危険だと思えば声を掛けるようにはしています
「愚行権」の主旨通り、私も何でも自由に振る舞って良いとは思っていません
そして、かなりの危険行為と思われる時も声を掛けるようにしています
その様な人々を見て、自分がいつの間にか迷惑をかける側にならぬ様に常に気をつけなければと思っています
街中の行為をそのまま山に持ってくる人の多い高尾エリアならではでしょうか。奥秩父などやや奥深い山では、積極的に声をかけますし、注意もします。
私も、他人の迷惑にならないよう一層気を引き締めたいと思いました。
衆目下の状況で具体的に説明する事を避け、曖昧な表現に終始してしまいました
山でのマナーについて、私自身確固たるものが有れば注意も出来るのでしょうが、それをどう他者に示せば良いか、具体的な方法が分からずにいます
難しい判断ですが、基本的には当たらず触らずでいて、明らかに自分にとって迷惑な行為には、毅然と注意する(これも言い方がありますが。)ということではないでしょうか。
確かに、自然破壊をしているのは人間、自然破壊という言葉を作ったのも人間。
自分一人でもマナーが悪い行動をしている時があるかも…
けれども、自分一人なら誰にも不快な思いはさせない。
大勢が集まれば皆たった1回のマナーが悪い行いも数集まれば目にする回数も増えます。
だから自分は極力人の集まる場所(山に限らず)行きません。
まして注意するなんて考えられない。
けど注意する人を否定も肯定もしません。
ある小屋番が軽装だっりする遭難予備軍には皆も声を掛けて云々と言っていました。
そのような方が遭難した時に救助隊か使われていたら、本当に必要な遭難者に人手が回らない、あなたが遭難しても人が居ないからとなるかもしれないから、軽卒な遭難予備軍に注意しましょうと。
それも一理あるかもしれませんが、それでも私は注意喚起などしません。
それは簡単、無用なトラブルに合わないため、ただそれだけです。
登山は、各人が楽しみたいと思って、それぞれの良かれと思う行為をなしているのですが、多くの人が共通の楽しみを共有できるわけではないので、利害が対立することがあります。それゆえ、おっしゃるとおり、人の集まる場所に行かないようにすることは賢明だと思います。私もそうしています。
小屋番は、その責任、責務から注意喚起しているのでしょう。遭難したときに、小屋番もまた救助応援しなければならない事態となりますし。
やはり、無用なトラブルとならない、更には自分が楽しむために、注意しないという判断は妥当であると思います。
極端な例ですが、マスクをしていない人に注意したら暴行されて重症を負ったという事件がありましたね。
これなどは他人に注意したばかりにトラブルに巻き込まれた最たるものです。
今は登山だけでなく、他人を思いやる気持ちに欠けた人が増えたような気がします。
例えば傍若無人に突っ走る自転車。歩行者の脇を猛スピードで走り抜け、見通しの悪い交差点でも一時停止どころか徐行すらせずに飛び出して来ます。
そこには交通弱者である歩行者を守ろうとする気持ちもなければ警戒心も想像力もない。
私が登山を始めた頃はネットなどない時代で、横山厚夫さんが書かれた「登山読本」を一生懸命読みました。
その本には他人に迷惑をかけないような山小屋での過ごし方や登山道の歩き方などが書かれ、とても勉強になる本でした。
しかし今はそのような本もなく、ネットで登りたい山を調べてマナーなど考えずに登りに来る人が多いように思います。
山小屋や登山帰りのバスや電車内で大騒ぎする中高年ハイカーも目立ち、つい先日もそんな人たちに遭遇して不愉快な思いをしたという日記を拝見しました。
私も他人の行動にいちいち目くじらを立てて注意する気など毛頭ありませんが、お互いに気持ち良く山歩きを楽しみたいと願っています。
コメントありがとうございます。
権利意識の多様化と想像力の欠如、そして心の余裕のなさがあるのでしょうね。登山は、色々な人が集まる場ですが、皆さん楽しみたいという気持ちは共通しているでしょう。しかし、その気持ちは、様々(静かに楽しむ人もいれば騒ぎたい人もいるなど。)であり、共有することは難しいです。マナーというのは、そういう部分に自然に効果的に働くべきものであり、押し付けるものではありません。
一方で、登山は、個人的な娯楽であると同時に(一部の山域を除き)集団的な行為でもあります。お互いに配慮しながら自己責任を貫くことが必要でしょう。
かなり難しい問題ですね。言葉の定義もありますし。
・マナー:「他人に不快な思いをさせない」が基本と思いますが、自分が出来ているかは疑問です。自分が遭遇したら・・?で考えるようにしています。単独登山なので、騒ぐことはありませんが。
・挨拶:「こんにちは!」、30人の団体が全員言ったりすると、団体側は1人1回、
こっちは30回、疲れます(コストカットのせいか、人数を区切らない、ツアーが多い)
・登り優先:急登であえいで登っていると、下山者が道を譲ってくれます。察してよ、休みたいのに・・・。
・熊鈴:早発が基本といっても限度があります(午前2時に声高にテン場で撤収支度している人も)。ウルセーぞ!
・登山:鹿や熊と同様、人間が山を歩くというのをどう比較しましょうか?
当方、時折バリ道を歩いたりしますが、踏み跡すら見つからないことも多いです。
ゴミ捨てはありえないとしても、生理現象まで我慢できません。スミマセン。
(洞窟探検家の吉田勝次隊は大小便はすべて持ち帰るそうです)
・自己責任:これが一番難しいですね。具体的に皆さんどうお考えでしょうか?
私の理解では、簡単に言うと、「人のせいにしない!」。
(川の中州でキャンプしていて鉄砲水に流されたのは行政のせいだ!という人もあるようですが)
登山中の判断はすべて、天候も含め間違っていようが、正しかろうが、自分の選択の結果です。
「道標がなかった」、「転落防止の柵がなかったから落ちた」等は言い訳にもなりません。
しかし、判断を間違えて遭難してしまった場合は、可能なら潔く救助要請するつもりです。
「山に行ったきり帰ってこない、どこへ行ったか分からない」では多大な迷惑が掛かりますから。
(当然ながら、自宅の登山メモ、登山届、登山保険、GPS・スマホ、予備電池等は日帰りでも必須)
愚痴も含めて記述してしまいました。すみません。
de 1000bero
マナーというものは、極めて曖昧で主観的であって、自己満足ともいえる性格のものですが、限度がありますね。私も、20人くらいの団体登山者がすれ違いできない登山道で向かい合った時、「すみません。」も言わずに先に通過していったのはマナーに反すると思いました。
登山は、個人的な楽しみといっても、集団行動の性質が強いです。登山を楽しむという共通の目的も各人それぞれ方向性が異なるものであるから、街中以上の配慮は必要でしょう。
自己責任は、他人の迷惑を考えなかったり、自分さえ良ければ良いということではなく、自らの責任において物事を対処し得る状態をいうところ、それには、十分な装備・計画・心構えが必要であり、おっしゃるとおり人のせいにしないことが重要です。それゆえ、登山道を逸脱しようとも、自己責任として他人が干渉する性質のものではないということといえます。
そうですよね。幣、単独登山なので、なにかあったら最低限、自分で対処できる装備、知識・技術(まだ全く不十分ですが)を覚悟しています(登山技術の不足はエレキ等の装備で補う)。GPSは電源切れの可能性があるので、地図読みができるように練習しています。大変でしょうから、本件レス不要です。
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