大菩薩嶺
- GPS
- 05:00
- 距離
- 4.8km
- 登り
- 381m
- 下り
- 359m
コースタイム
13:00雷岩-13:40大菩薩峠-14:20唐松尾根分岐〜15:00上日川峠
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2009年06月の天気図 |
アクセス | |
コース状況/ 危険箇所等 |
危険箇所なしです。唐松尾根からは緩やかな登り道。 |
写真
感想
06月12日(金)
天気予報を眺めたところ明日は梅雨晴れと知った。五月「川乗山」以来、一ヶ月ぶりの登山を即座に決めた。美しい、心根の優しい「山の神」に奥多摩に向かう裁可をおそるおそる仰いだ。「いいわよ」と期待通りのお返事。カメラの電池充電、テルモスへの珈琲詰。道具の点検と下山後のお風呂着替えセット。車中の仮眠に使うシュラフ。そそくさとそつなく支度を整え2030に家を出た。
首都高速、環七、谷原、関越、圏央を経て青梅まで。買ったばかりの車備え付けのナビに従ったせいで知らず関越高速道に入ってしまった。いつものとおり素直に青梅街道を辿ればよかったのだ。結局、往路の高速代だけで2500円も支払うことになるとはなんという間抜けだろう。まさか谷原からダイレクトに関越道に入ることになるとは夢想わなかった。地図読みに失敗し彷徨する登山者のようなもの。あのとき、たしかに私は街を彷徨ってしまい自分の位置を失ってしまっていた。使いこなせない道具「ナビ」。無理もない、まだこの車に乗り始めて二ヶ月。
このまま行けば新潟に向かうことになると呆然としたが、ままよ、このまま前橋まで走って、ひさしぶりの赤城山登山もいいかなと一瞬思ったことだ。幾度も通った赤城山麓「桑風庵」のおいしい蕎麦の味が頭を過ぎった。
計画をコロコロ変える悪い癖がある。いつも思いつきの登山をする。(ことに奥多摩山域に限って)山の神に奥多摩「大岳山〜御岳」ルートを登ると告げて来た。壁に貼ってある五万図に始発点と行程ルート、下山点を黄色ピン青ピン赤ピンで指し示してある。何かあった場合は、そのルート線上のどこかにいることを知らせてある。安易にルート変更をするものではない。当初の目的通り奥多摩に向かうことを決めた。まず何よりも登山計画書ありきでなければならない。しっかりした登山計画に基づいた登山でなければいけない。山の大小ではなく、どんな小さな山であっても、その心構えで立ち向かうことで山の地勢、表情、趣を味わい深く豊かに感知することができ、楽しみ満足度が倍加するのだと学んできた身ではなかったか。一人で向かう山は、いつも気まま放縦に過ぎ、いつしらず、その我儘ぶりを身に纏ってしまっている。これではいけないなあと反省した。山に限らず仕事・生活を含めたあらゆる領域でも通じる考え方だ。
青梅市街からは、いつもの街道沿いを走った。コンビニで食糧を求め0025に奥多摩駅に着いた。高速道を使って往路4時間では間尺に合わない。ナビを信用するのも考えものだ。(道具を使いこなせていないことが理由の第一)
奥多摩湖畔のいつもの定位置に車を停め、持参したテルモスの珈琲を飲んで長時間ドライブの昂奮を鎮めた。湖上の中天に昇る月、その下に寄りそうにように瞬く星を眺めながらシュラフに包まった。
「車キチガイ」が一台、湖畔沿いのアスファルト道を疾駆しタイヤの摩擦音をけたたましく響かせ幾度も往来した。パトの赤いサイレンが闇に瞬き始めた。
私の車に近寄り眩しいライトを顔に浴びせ、ここで何をしているのかと職務尋問めいたことを言い始めた。「ここは駐車禁止となっていること。切符を切る場所であること。私は切らないけどおまわりさんは私一人ではないこと」とやさしく恫喝して去っていった。泣く子と桜田門には勝てない。ここ数年、不本意な違反で残り点数の少ない、脛に傷を持つ身には黄門様「この紋所が、」出現に等しい。権門への畏怖のトラウマは学生時代に遡る。
やむなく公園側の駐車場に移動し、煙草を一本吸いつけ、ただちに眠りに入った。
06月12日(土)梅雨晴れ
0600山の神からの電話で目を覚ます。洗顔を済ませ備え付けのベンチでパンと珈琲の朝食を摂る。固形燃料のEsbitをデビューさせた。燃料、カップ、珈琲パックが手のひらに収まるというコンセプトに惹かれ揃えた道具。固形燃料二個、おおよそ10分で水が沸いた。美味しい珈琲を淹れて飲んだ。日帰りハイキングならこのレベルで十分なのだ。十年来、日帰りは小さなザックひとつで済ませている。ガス缶とカップの嵩が悩みの種だった。
バイク族が続々と公園に集結し歓談する姿。「どこから走ってきたの?」と自慢のバイクを目の前にし話の花を咲かせていた。
今日の山は「大岳山」ではなく、かねてから登りたいと思っていた「大菩薩嶺」と「三窪高原」に決めた。
0730、山の神に電話を入れルート変更を告げて走り出した。
柳沢峠(1477m)までの山道を快調に飛ばして行った。漸く新調した車の走りに馴染んできた。ギアのタイミングとアクセルの踏み加減を身体に覚えこませるのに、約二ヶ月ほどかかった。15年乗った車(VW)の癖が身体に沁み込んでいた。女房と畳は新しいほど、、。笑。
柳沢峠、そこが山梨県と東京都の分水点になっている。ここにもバイク族が集結し会話の花を咲かせていた。甲府市街を遠望しながら下って行った。まっすぐ行けば塩山駅に向かう道(R411)やがて大菩薩登山口の指標が左手に見えた。上日川登山口まで細いアスファルト道を走った。冬には閉鎖されるゲート付近で若い山岳パーティの姿を見た。どうやらここから山頂を目指すルートを辿るようだ。(丸川峠へ向かうルート)登山は麓から登ってこそ味わいがある。いつも軟弱登山ばかりの根性のない私だけれど、時間があればそういう歩きを私もしたい。正直、うらやましかった。次回は公共機関を使ってチャレンジしてみようと思った。幕営セットか小屋泊で。
登山口から山頂まで一時間半で到達した。のんびり写真を撮りながら登っていった。人里の手が入った奥多摩の山とは樹林の様相が随分違うように感じた。自然林がいっぱい残っているという印象だった。福ちゃん荘から辿った唐松尾根の静かさが心に沁みた。大菩薩嶺の指標の前で記念写真。三角点の石に「こんにちわ」と手を触れた。
雷岩から四方を眺めランチを摂った。私には禁断の「おにぎりと歌舞伎揚げ」。野点は珈琲。目の前に上白川ダムを遠望した。残念ながら霞のため富士山の威容を眺めることはできなかった。
1300、大菩薩峠に向かった。2000m指標付近で蜥蜴昼寝をしてる人がいた。岩の上で、風に吹かれ気持ちよさそうに眠っていた。やがて賽の河原に。どうやらここが昔の大菩薩峠であったらしい。ひろびろとした空間のそこかしこに「ケルン」が積まれていた。中里介山が著した「大菩薩峠」は、その長さにおいて比類ない作品。30数年書き続け、ついに未完のままに作者死亡したという逸話がある。
幼少の頃に映画を見た記憶がある。主人公、机龍之介が、峠を通りかかった老人を故なく惨殺する場面から物語は始まる。その傍らに居た幼い少女が物語の伏線となって後に登場してくる。延々と30数年書き続けられた物語とは、いったいどのようなものか。あまりに冗長に過ぎる。それを読み終えるまでに、私が死んでしまうのではないかと。
賽の河原に建つ小屋は避難小屋だった。中を覗いてみた。板敷きの角部屋風で、まさしく避難するだけの空間だった。宿泊場所ではありませんとの断り書きがあった。
やがて大菩薩峠(1897m)いつも写真で眺めていた伸びやかな稜線を背景に記念写真を一枚。介山荘で土産のバッジを求め小休止した。小屋で休んでいたおじさんふたりが、盛んに「ハイブリッド車」の話に興じていた。「あれはなかなかカッコイイなあ」「でも年間30000キロ走るのでなければ元が取れないのでは。30000キロも走ったら五年で150000キロだから修理代も大変らしい、、」とか、、。横で聞きながらくすくすと笑っていた私。小屋の天井に小樽「北一ガラス」のランプが吊ってあった。我が家にも置いてある「北一ガラス」の灯油ランプ。一度も点火しないまま放置されたままで9年目。
峠から福ちゃん荘に戻る道は里山の広がり。寂れた山荘「勝緑荘」と「富士見山荘」を左に眺め、冷たい沢水で喉を潤した。福ちゃん荘で土産を物色したがこれといって心惹かれるものがなかった。ここで皇太子殿下が休息したとある。170円払って冷たい珈琲を飲み煙草をくゆらせながら暫し憩った。
帰路、丹波山「のめこいの湯」で汗を流した。自宅に帰りついたのは2125だった。
2009.06.20脱稿。登山記録を書き上げるのに一週間、ようやく大菩薩登山が終った気がする。
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