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その山林は詳しいことを何も話さないまま他界した父の遺産である。共同所有者らの代表として総会を仕切り、国税を納め、何かしらの開発で譲渡要請があれば切り売りしていた。山林管理が生活の一部だった時代。谷地形でも奥の奥まで田畑があり常に人の手が入り里山が美しかった時代だ。大人は薪取りあるいは自然薯を掘りに、子供はクワガタを探しに森へ入った。畑の脇に自生する蓬は草餅にし、切り開いた山野に梅や栗を植えた。今はただの藪山。杉の植林が一部あるが、下枝処理をしていないので節が大きく建材としては下級品だろう。父は世話好きだった。山野に東屋を立てて俳句でも詠みながら老後を過ごしたいという友人のために所有者と交渉して山林を手配し、重機で藪を切り拓いて道を作ってあげた。そんな父から引き継いで我々所有者の代表をされている方の案内でおおよその境界を知ると、やはり実際に歩いて見たくなるのが山屋。藪を漕いで他有地との境界を歩いてみる。
宮城県沿岸部。実家からすぐ近い低地の山林へ息子と娘と3人で向かう。農道沿いはチラホラと梅が咲いている。藪に飛び込むとすぐに足元は大量に積もったスギ花粉で黄色のチョーク粉を塗したよう。「冬しか入れないね」と息子がいう。日向は特に藪がひどいが尾根の北西側は藪が薄い(写真)。シンボリックな山桜を見つけ、
「4月はどんなんだろうねぇ」
「次は鉈と鋸を持ってこようか」
「やっぱり薪ストーブかなぁ」
「里山後継者なんだから少しでもCO2削減に貢献しようかねぇ」
東日本大震災から12年目の3.11。薪割りの記憶と郷里の里山の記憶が繋がった。
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