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私は、とにかく人の顔や名前をちっとも覚えられない。初見で話をしても、一定期間の接点がない人は顔も名前も忘れてしまう。実に失礼な人間だ。
その人とは、あの日にすれ違い、言葉を交わしていた。
あの日とはそう、伊藤新道での死亡事故が起こった一昨年の秋の日のことだ。事故発生から3時間半が経ち、遭難者が救助隊のヘリに収容されたあと、残った私たちパーティは敗残兵のような気持ちで湯俣川を下流へと向かって歩いていた。
やがて、10数人の大パーティが下流からやってきた。カメラマンとか、工事機材を持った人とか、ごく軽装の人とか、とにかく色んな人がいた。そのうちの一人と私は言葉を交わしていたのだ。
「ヘリが飛んでいましたけど、何かあったんですか?」
「いや、ちょっとトラブルがありまして」
そのときは、それ以上説明する気にならなかったし、どうせすぐに白日の下に晒されるのだろうと、暗い気持ちで、その人の顔をほとんど見ることもなく、重い足取りで下流へと歩いていった。
挽きたての美味しいコーヒーを飲みながら、昭和初期に刊行された、古い古い文庫本を読んでいると、その人が私の向かいに座ってきた。
雑談を交わしているうちに、あの時に言葉を交わした人だということがわかった。その人は、三俣山荘の関係者であり、あれから私と話をしたいと思っていてくださったのだそうだ。
私たちの事故は、図らずも多方面に大きな影響を与えていた。翌日に新第一吊橋開設を控えた、伊藤新道復興プロジェクトに冷水をぶっかけたのは紛うことのない事実だ。
事故を受けて、現場の岩場には人工物が多数敷設された。それは、自然の本来ある姿を侵したのかもしれない。そうまでさせてしまったのは、私たちなのだ。
この心の中で渦巻き続ける気持ちは、きっと誰にもわかるまい、そう思っていたのだけれど、その人は、事故当事者である私たちとは逆の、三俣山荘の関係者としての立場として、そして恐らくは山を愛好するいち個人として、この事故について心を痛め続けていたのだ。
人それぞれ、立場が違う。そして、相対する立場の人同士が交わることは、あまり多くない。あるとしても、呉越同舟などという、好ましいとはいえない、例えて言うなら、ラディッツに立ち向かう悟空とピッコロのような心境であることが少なくないように思う。
しかし私たちは、少なくとも私は、その人と何か通ずるものを感じた。磁石のNとSのように、引き寄せられたような気がした。
これを、邂逅と言わずしてなんと言おうか。
伊藤新道遭難死亡事故
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