![]() |
![]() |
![]() |
通学は着物で防空頭巾をかぶり草履か下駄ばきでした。
母親は婦人会の竹やりの練習でアメリカ兵が落下傘で降りたときの竹やりの使い方を練習しておりました。
憲兵が村々を回って指導していたようです。
夜には警戒警報がなり家を飛び出て防空壕に走る毎日でした。
戦争がなんであるかワカラナイうちに終戦になり、急に民主主義が唱えられ一番困惑されたのが学校の先生だったと思います。
当時コメは配給制で食糧難でしたが我が家は農家で幸いでした。

18歳で大阪に出て学業と仕事に励み早や70年、まも無くお迎えがくる年齢に達しました。


日本も数える時代を過ぎ民主主義も定着したと思います。
世界のあちこちでは火花が飛んでいます、早く平和になることを祈るとともに平和の尊さを実感している老人です。

はじめましてこんにちは
お話しからお見受けするに、私の90歳の祖母と御年齢が近しいのではないか?と
その御年齢の方々が余り話したがらない戦中、戦後直ぐのお話し
お時間あって体調が宜しい時で良いので、ぽつりぽつりと聞かせて戴く事って出来ますでしょうか?
私は祖母の幼少期、靴なんて無いから「草鞋」を履いて学校に行ってたんだと聞いて「物語の話しだと思ってたけど、そういうの現実だったんだ!」と驚いた事があるんです😅
父が「進駐軍の基地が近くにあって、アメリカ軍からチョコレート貰った事あるよ」って話してくれた時も「ギブミーチョコレート本当だったんか!」って思いました
余り話したくは無い辛い時代の記憶だとは思いますが、ご一考の程よろしくお願い致します
コメント有難う御座います
終戦記念日を迎え何となく当時を思い出し記憶を少したどりました。
私の幼少期は完全に封建制でいまの農家は地主様から農地を借り年貢を納めておりました。
年貢を納めた残りが百姓の収入で大変でした。
所謂水飲み百姓で貧乏で学校も6年で終わり高等科に進む子供は少数でした。
当然電気も水道もありませんでした、夜は小皿に菜種油を入れ芯に火をつけて明かりをとってました。
水は各自井戸を掘りつるべで汲み上げておりました。
従って早寝早起きが常で暗くなったら寝る明るくなったら起きるの日常生活でした。
今から思うと時代劇の延長でした、一度おばあ様に聞いて下さい、もちろん地域によって違うでしょうが、こんな古い話信じられないかもしれませんが ほんとのことですよ
返信ありがとうございます
大変興味深く読ませて頂きました
私は群馬県に住んで居るので
養蚕でお蚕様のお世話が大変だった事
地域の人達でお金を出し合って羊を飼ってスーツを作るための羊毛にしていた事
田んぼを耕す為に牛を飼っていた事
その牛の餌の青草を狩るのが子供だった頃の父の仕事だった事(これは終戦から10年後位?)
その牛から搾った牛乳が美味しかった事
勿論「竈」だったから神社に杉の葉の焚き付けを拾いに行っていた事
貧乏で大変だった事
等は聞いた事があるんです
祖母と仲良しの方も90代の方ですので、祖母も交えて訪問して沢山お話し聞きたいなと思います
本当にありがとうございました😊
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する