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とても山へ入る気がしないのでしつこめに続けます。
前項で金糞峠の家には触れましたが、ほか50年前の比良の山小屋事情です。
まずはもう跡形もない比良ロッジの記述から。
本文・頁107〜108、113〜114/「比良の泊り」「山上の宿」
【前略】金糞峠の宿がなくなってしまうと、比良の山上で営業している宿泊所は
比良ロッジだけになってしまう(中略)昭和36年の1月から営業を始めた(中略)
なかなか気のきいた建物で、どこかのゴルフ場のロッジみたいな家である。
二階に張りまわした露台からは、正面谷から堂満岳、釈迦岳を前景に湖国の展望が
すばらしい(中略)階下は大広間、ここは食堂にもなる。なかなかしゃれた調度
が使ってあってバーまである。二階は寝室、二段ベッドで八人部屋が多い。
三人用の小室もあってここは畳敷だ(中略)ここのロビーで安楽椅子に腰掛けて
琵琶湖を眺めていると、スイスの山小屋みたいな気持ちになれないとも限らない。
【後略】
この本の初版が、ロッジ開業と同じ昭和36年。写真を見れば一目瞭然、まさに出来
たてのホヤホヤな訳ですが、それでも著者の筆致はまったく突きッ放したようで、
手放しで勧めるような姿勢は微塵も感じられません。引用箇所の最後「なれないとも
限らない」ってあたり、著者の「立ち位置」が如実に出ているように思えます。
提携関係など、気を遣わざるを得ない当今のガイド本とは一線を画してますね 。
当時の宿泊料ですが、大部屋は800円・畳敷部屋は1,000円とのこと。
(差額はユカタ代?と皮肉っぽく書いてあります)
また同じ年、比良索道(株)は、八雲ヶ原に大規模なキャンプ場を開いているのですが
著者には、コレがとりわけ目障りなご様子。この項の最後、このキャンプ場と登山
リフト(当時は釈迦駅までで、その上のロープウェイは出来ていなかった)を睨ん
で、筆鋒はますます痛烈。
【前略】ただ、八百円は比良の登山者にはつらいところだ(中略)登山者でない
比良遊覧客が激増するとロッジは宿泊料をあげるかもしれない。いよいよ登山者
とは縁が遠くなる(中略)ロッジで泊まれないやつはこのテント(註・キャンプ場)
で泊まれ、という訳であろう(中略)貧乏人は八雲ヶ原へ、ということになる。
【後略】
ひえぇ!ガイド本なんだから、もう少し穏やかに、と言いたくなります。
サボりでヘタレの小生など、いまこのロッジがあって800円(!)で泊まれて、
ご飯のあとはバーで一杯、ゆっくり寝たら翌朝はご来光を拝んでダケ道へ・・
なんてステキなシチュエーションなのでしょう

仮に宿泊料5倍でも、ほとんど毎回利用してしまうでしょうねぇ

このあとは山中の私設小屋(クラブヒュッテ)について記述が続きます。
もちろん大部分は勝手に泊まれなかった小屋ですが、それでも詳しく解説されていて
写真も興味深いのだけど、あまりに長くなるので施設名と概略のみ筆写します。
( )内は小生の記述です

望武小屋(イブルキノコバ付近、最近まで廃墟があった)
暮雪小屋(金糞峠から大橋方面へ進み、ヨキトウゲ谷〜中峠への分岐付近)
深谷小屋(奥ノ深谷から南比良峠へ登る途中)
きびたき小屋(上の深谷小屋近く、山に分け入った場所にあったらしい)
八雲ヶ原小屋(石を積み上げたコンクリート造りだったとのこと)
打見道場(今も地図に記載。本来は宗教施設、トタン造りのカマボコ形だったらしい)
大橋小屋(今も廃墟が残る。周知の場所)
広谷小屋(宝酒造「山の会」設立。今の場所とは違う?)
水晶小屋(いまも廃墟が残る。南比良峠と大橋の間。NFC山の会設立とのこと)
奥山山荘(水晶小屋の上手、横谷沿い。炭焼小屋改造とのこと)
京都大学WV部小屋(木戸峠から北へ、白滝谷の源流域。今もあるのか?)
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