打見山で1960年頃経塚遺跡が発見された。場所は、尾根筋の稜線を少し西にくだった葛川谷側に面した場所で、白滝谷をつめたところ。磐座のような巨大な自然石が屹立し、その裾に石組の小石室が現在も残っているらしいが、ここから埋納遺物が出土した(『志賀町史』p.400)。
出土した遺物は、陶製経筒外容器、青白磁製合子、青銅製六器(小椀と青銅製台)、青銅製香炉、金銅製花瓶、土師製花瓶。
経筒内の経典は朽ちて劣化したのか、消失していた。 陶製経筒外容器は愛知県の猿投山古窯跡群で焼成されたものとされており、その時期は12世紀後葉と推定されている。
経塚は弥勒信仰と結びついている。年代がわかる経塚のもっとも古い例は藤原道長が金峯山(大峰山上ケ岳)参拝の際に埋納したものとされている。滋賀県では、打見山の他に比叡山の四明岳と横川に経塚遺跡があり、さらに伊吹山山頂にもみられるという(同上、p.401)。
比叡山、比良山、伊吹山、大峰山、いずれも平安時代の七高山(比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・神峰山・金峰山・葛城山)にかぞえられる。このことから、志賀町史の著者は、「この比良山は、深山幽谷での修行のなかで呪験力を体得しようとした修験者が、その霊力を身につけるにふさわしい聖なる地と考えていたわけであり、また、そのような土地柄であるため、弥勒出生の聖地にみたてて、経塚が営まれたのであろう」と推測している。
つまり、打見山は葛川明王院を拠点とする修験勢力にとって聖地とみなされており、少なくとも平安時代末期には、そこに登る修行者が少なからずいたということになるだろう。
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