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日記

カテゴリー「登山史メモ」の日記リスト 全体に公開

2023年 10月 24日 21:25登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その10

5.ヤマレコの記録 その6  2015年の大文字山全体の記録は355件で、そのうち北面に入った記録は47件(13.2%)にのぼる。13.2%は、今までにない高い比率である。記録者の実人数は8人であり、2014年の5人に続き、すこしづつ伸びている。8人の内訳は、fu-tyan氏、yakeikaryu
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2023年 10月 23日 22:59登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その9

5.ヤマレコの記録 その5  2014年になると、大文字山全体で234件、北面は13件(記録者の実人数は5人)。比率は5.6%で、前年、前々年に比べ少し増加している。記録者の5人とは、fu-tyan氏、yakeikaryudo氏、hehe氏、edasama氏、iwamou氏である。fu-tyan氏
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2023年 10月 20日 12:34登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その8

 5.ヤマレコの記録 その4  2013年には大文字山全体の記録数226、北面のそれが8件で、全体の3.5%をしめるにすぎない。記録を残した人は3人で、そのうちの1人であるfu-tyan氏が半分以上の5件を残している。他の2人はdrpepper氏とtaku102氏である。  後者の2人の山行に共
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2023年 10月 06日 15:00登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その7

 5.ヤマレコの記録 3 2012年になって大文字登山の記録は151件となり、ようやく100件をこえた。すでに述べたことだが、記録数が150件をこえたこの年以降は、ヤマレコにおける山行記録の分布状態は、大文字に登る登山者の動向を反映するものとして、統計的に有意なものとみなすことができそう
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2023年 10月 06日 13:55登山史メモ

ヤマレコの記録からみた大文字北面登山史(未定稿)その6

5.ヤマレコの記録 その2  ヤマレコに収録の大文字山山行記録数と北面山行記録数の累年変化(1983〜2016)(2021年2月22日集計) A:大文字全体、B:北面、C:比率、D:北面記録者の実人数 年度 A B C D 1983 1 0 0 0 1986 1 0 0 0 19
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2023年 10月 03日 13:50登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その5

5.ヤマレコの記録 その1(2011年まで)  ヤマレコは2005年10月30日に発足したソーシャルメディアである。しかし、最初のうちは登録者数も少なく、登録された記録も少ない。大文字山にかぎると、2021年2月22日現在で見ることのできる2005年の山行記録はわずか1件であり、記録数が統計的に有
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2023年 10月 03日 13:36登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その4

4 山と高原地図の大文字北面  1971年6月作成と記述されている、昭文社の「山と高原地図 京都北山1」(調査執筆金久昌業)では、大文字エリアそのものが、収録されていない。東山では白川以北にしか登山コースはない。京都北山の開拓者の1人である金久氏からすれば、大文字山は京都北山の範囲に入っていなかっ
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2023年 10月 03日 13:26登山史メモ

ヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史(未定稿)その3

 いろいろな理由でヤマレコの記録よりみた大文字北面登山史は完成できなかった。残念だがいたしかたない。せめてその断片なりともメモのかたちで残しておきたい。なお、以下のメモはすべて2021年2月末時点のものである。 3.ヤマレコ以外の大文字北面の山行記録 1)竹内康之『比叡山1000年の道を歩く』ナ
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2021年 02月 09日 23:59登山史メモ

ヤマレコの記録からみた大文字山北面登山史―その2

 この小登山史の考察対象である大文字山北面の領域を確定しておきたい。  ここでいう大文字山北面とは、北は白川、南は火床から頂上を経て如意ヶ岳にのびる尾根、西は大文字川、東は新田川に囲まれた南北約1.7km、東西約1.5kmの狭い区域である。白川辺
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2021年 02月 07日 17:38登山史メモ

ヤマレコの記録からみた大文字山北面登山史―その1

ヤマレコの記録からみた大文字山北面登山史  はじめに  大文字山(標高465.3m)は、京都の東、町のすぐ近くにそびえる里山であり、市街のほぼどこからでも見ることができる。中腹にはお盆の送り火が焚かれる火床があり、その「大」の字は京都のシンボルともなっている。火床からは京都の市街が一望でき、観光
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2019年 07月 25日 17:24登山史メモ

寒川辰清『近江国輿地志略』にみる比良山系

 『近江国輿地志略』は膳所藩の儒者寒川辰清が、藩主の命によって編纂した近江国の詳細な地誌である。享保8年(1723)に編纂を開始し、同19年(1734)に完成した。全部で100巻の大部の書物である。  その「巻之二十九志賀郡第二十四」中に「比良山」の項目がある。「比叡山の北にある大山なり。直立八町
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2019年 06月 23日 10:50登山史メモ

比良山系を描いた古絵図

1.「比良荘絵図」  中世の荘園を描いた絵図として有名な「比良荘園絵図」に比良山系が描かれている。  「比良荘園絵図」には三種類の異本が伝来している。北小松の伊藤泰詮家本、北比良区保有、南比良区保有の三つである。南比良本には元禄9年(1696)の筆写年代があるが、他の2点は不明である。  三点
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2019年 06月 22日 20:27登山史メモ

打見山経塚遺跡

 打見山で1960年頃経塚遺跡が発見された。場所は、尾根筋の稜線を少し西にくだった葛川谷側に面した場所で、白滝谷をつめたところ。磐座のような巨大な自然石が屹立し、その裾に石組の小石室が現在も残っているらしいが、ここから埋納遺物が出土した(『志賀町史』p.400)。  出土した遺物は、陶製経筒外容器
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2019年 06月 22日 19:56登山史メモ

比良山系の山岳宗教遺跡2–妙法寺・最勝寺遺跡

 承和九年(842)、近江国の妙法寺と最勝寺に、一年にひとりづつの得度者を認められた。そのかわりに、両寺に対して妙法蓮華経を完全に暗誦できるまでの修業を義務づけた。  栗原にある西正寺野遺跡からは、10世紀初頭のものと推定される土器が出土しており、ここが最勝寺や妙法寺の跡地と推定される。『日本三代
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2019年 06月 22日 19:47登山史メモ

比良山系の山岳宗教遺跡1

 志賀町史編集委員会『志賀町史』第1巻、志賀町、1996年に添付されている「志賀町遺跡地図」によれば、比良山系中の遺跡は、すべて飛鳥時代以降のもので、古墳時代以前のものは存在しない。  掲載されている遺跡は以下のとおり。 1.城郭跡: 寒風峠遺跡 涼峠遺跡 野々口城遺跡(ノタノホリ南方37
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